そして、ふたりは変わる





冷たくて気持ちが良い。

木目調の天板は廊下の空気を含んだようにひんやりとしていて、

火照った頬にちょうど良い。

今日一日で疲弊してしまったあたしの神経を僅かながら癒してくれる。

「あ、さんだ」

小さく囁く声も勝手に聴覚が拾ってしまい、眉を顰めた。

正常な耳が今日ばかりは憎い。

「まぁ、あのふたりは将来的にそうなると思ってたけどねー」

「でも良いなぁ、さん。あたしもプロポーズされてみたい!」

「あたしもー」

さん、今、幸せ絶頂なんだろうねー」

机に突っ伏してぐったりとしているあたしを眼の前にして、

どうしてそんな言葉が出てくるのだろう。

どこで幸せとイコールされているのか不可解だ。

「阿部」

「なんだよ」

「あたし、幸せそうに見えますか?」

「寧ろ不幸ど真ん中?」

「ご名答」

「つーか、お前人んとこ来て突っ伏してるなよな。感じ悪ぃ」

阿部の不機嫌そうな声が頭に降ってくる。

でも、本当は怒ってないことくらい知ってる。

「だって阿部のところしか思い浮かばなかったんだもん」

「……ったく」

ほらね、もう何も言わない。

伊達に半年間、マネジをやってる訳じゃない。

阿部は無愛想で、言葉遣いが悪くて、不機嫌を滲ませた声質をしている。

そして実際沸点も比較的低い。

けれどそれが彼にとっての普通であり、本当は信頼にはちゃんと応える情深い人間だ。

だからやわらかな雰囲気の栄口くんよりも、甘え上手な水谷よりも、

人懐っこいを通り越してすべてに対してオープンな田島よりも、

あたしはいちばんに阿部に心を許し、親しくなった。

そう、それよりも田島。

本当にアイツはオープンもいいところ、開けっぴろげで筒抜け過ぎる。

おかげで一日、散々だ。

今日もいつも通りの始まりだった。

瞑想だけ参加してからおにぎり関係はしのーかに任せ部室の掃除を済まして、

朝練を終えたみんなを出迎えた。

田島は「おはよー、!」って抱き付いてきて、いや、飛び付いてきて、

あたしは崩れ落ちそうになる自分を必死で支えた。

それもいつも通りのこと。

あまり気にせず、「田島、どいて、重い、汗臭い」って言い放った。

でも、田島は止めるどころか「やだー」って土の付いた頬をぐりぐり肩口に擦り付けてきて。

どこの犬だ、飼い主……うん、飼い主の花井さんコイツを……と思った矢先、

身体がふわっと軽くなって田島から解放された。

「おい、お前はどこの犬だよ」

振り返ると呆れ顔で田島の首根っこを掴んでいる孝介がいた。

「花井さんとこの犬だと思いますけど」

田島に汚されたカーティガンの肩を払いながら答えた。

血を分けた人間みたいに同じ発想なところがもう恐ろしいを通り越して面白い。

「何すんだよ、泉ー」

「田島、朝っぱらから盛るな」

「良いじゃん、だって嫌がってないんだから」

「いや、嫌がってますから」ってあたしが即行でツッコミを入れると同時、

孝介が「駄目、コイツに触んないで」なんて言い出すからあたしは嫌な予感がした。

今まで田島のあたしに対する愛情表現もといセクハラ暴挙を止めてくれるのは

阿部とか栄口くんとか飼い主の花井さんとかであって、

孝介は「に盛れるなんてお前発情期真っ盛りなんだな」と傍観しているだけだった。

田島を制止している時点で何かが違っていたのだ。

「なんでだよ、泉に関係ねーじゃん」

「いや、あるし」

「どこに?」

「コイツ、俺の……」

あたしは反射的に手元にあった部誌で思いっきり孝介の頭を叩いた。

田島を追い払い、痛がる孝介を引っ張って部室の外に連れ出して溜息。

「お前、何すんだよ!」

「いや、それはこっちの台詞。孝介、さっき何て言おうとした?」

「俺の嫁」

やっぱり……いや、想像以上の解答だった。

瞬時に察知・判断・行動をした自分を褒めてあげたくなった。

「いやいやいや、孝介さんとりあえずそれはやめとこう、そして落ち着いて」

「なんで? つーかお前が落ち着けよ、顔紅いし」

「うるさいよ。とにかく事実と異なる発言はやめましょう」

「事実に基づいてるじゃん」

“幼馴染み”って言うと、そこに甘酸っぱいものがあるように思われがちだけど、

そんなものは一切ない。

少なくとも、あたしと孝介の場合、ない。

そう信じて疑わなかったあたしたちは昨日、共に生きることを誓ったばかりだった。

そう、つまりは結婚しよう、と約束したのだ。

人生何が起こるか分からないとはこういうことだと思う。

「だけどまだ嫁じゃないから!」

そのとき、あたしは気付くべきだったのかもしれない。

昨日のプロポーズから孝介はどこか変なスイッチが入っていたのだ。

納得した孝介を連れて部室に戻ると一斉に視線が集まって、

ただならぬ空気が漂っているのが感じ取れた。

更に嫌な予感がして、さっさと立ち去るに限ると考え至った。

「あぁ、着替え中にごめんね。鞄だけ取らせて」って言い切る前に

田島が「ゲンミツにそうだって!」って宣言してギラギラした眼をこちらに向けた。

獲物を狙う肉食獣みたいだな、って一瞬怯んだ。

「なぁ、お前ら付き合い始めただろ?!」

田島という奴は頭が若干弱い。

厳密の意味が理解出来ていない時点で結構やばい。

しかも漢字で書けないんだからだいぶやばい。

でも、そういう奴に限ってなんと勘の鋭いことか。

あの数秒のやりとりであたしたちの関係が今までと違うことに勘付くなんて、

野性の勘って恐ろしいと思った。

「なぁ、そうだろ?!」

否定しなければと思うのに言葉が上手く喉をすり抜けず、あたしが何も答えられずにいると

代わりに孝介が軽やかに口を開いた。

「違ぇよ」

その言葉に空気が緩んで、いつもの和やかな部室に戻った。

なんだよー、やっぱ田島の勘違いじゃん、あー、焦ったー、あはは、そんな声が飛び交う。

さっきの調子を考えると孝介は肯定すると思っていたからあたしは脱力した。

命拾いした、危うい。

そう思って孝介の方を向くと孝介もこっちを見ていて、一瞬にやりと笑った。

背筋が凍った。

孝介がその顔をするときは本気でやばいことをあたしは経験上熟知していた。

「俺達、婚約したんだ」

なんでもないことのように孝介は告げた。

あたしの手から力が抜け、部誌が派手に音を立てて落下した。

「ほらねー」という田島の嬉々とした声が意識の遠くの方で聞こえた。

眩暈を感じ、あたしは殺意を込めた視線を孝介に向けた。

だけどアイツは「事実と異なってないだろ」とすました顔で交わし、

上機嫌で着替え始めた。

栄口くんは「阿部は酷い奴だよ」って言うけど、

本当に酷い奴ってこういう奴のことを言うんだとあたしは思う。

そしてあたしの不幸はそれだけで留まらなかった。

教室に戻るなり田島は浜田先輩を見つけると駆け寄って、

「なぁなぁ、浜田知ってた?! 泉と、婚約したんだってー!」と叫んだ。

つーか、叫びやがった。

叫ぶ、固まる、照れる、囃す、とにかくみんなそれぞれの反応で教室は騒然とした。

「なぁ、浜田も知らなかったでしょー?」

そんなこともおかまいなしに邪気のない笑顔で浜田先輩に尋ねる田島の頭に

教科書の詰まった鞄を投げ付けたあたしに一切非はない。

田島があたしと孝介の婚約発表を勝手にしてくれたおかげでこの有り様だ。

ケツバット食らわしてもお釣りが返ってくる筈だと思う。

好奇の視線を浴び、小声で囁かれ、真相確認の相手をし、

あれから心が休まることが一時もなくて阿部のところへ逃げてきた。

どこも大差ないけど、孝介と一緒にいないだけたぶんマシだ。

「で、実際はどーよ?」

「何が?」

「婚約した気分」

顔を上げて阿部を見てみたけど、その表情にからかう調子はない。

婚約の発表が終わりましたところで質疑応答に移りたいと思います。

テレビで聞いたことのある台詞が過ぎったけどとりあえずおいといて、

真面目に考えてみる。

「いやー……別に何も」

「なんだそれ」

「だってうちら何も変わって……あ、でも孝介はなんか変わったよーな……?」

「そりゃそうだろ。変わってないの、お前だけなんじゃねーの?」

近過ぎる距離。

これ以上何の変化があるというのか。

まさか今更甘酸っぱさを醸し出せとでもいうのか。

そもそも、婚約に至るまでにはとてつもない過程を要するものなのに、

あたしたちはそれを全部飛び越えてそこに到達してしまったのだ。

変われる見込みがない。

「だって幼馴染みだよ?」

あたしの言葉にお前は馬鹿かという溜息を吐き、阿部は眼を細めた。

ほんのときどき、阿部はあたしと一緒にいるときにこういう優しい顔をする。

なぜだか見てはいけないような、そういう類の表情だ。

その瞬間、あたしはらしくもなくどきりとする。

「まぁ、俺はのそういう女くさくないところ、結構好きだけど」

女らしくなくて悪かったな。

というか、結構好きって何なんだろう。

あたしが言葉に詰まっていると、阿部は元の顔に戻って「あ、ダンナが来たぞ」と言った。

「お前、阿部のところにいたのか」

ぼそりと呟く孝介の機嫌があまり宜しくないのが窺えた。

けれど噂の渦中のふたりが並んでいる光景に眼を向けずにいるほど

人間は無関心に出来ていない。

周囲の好奇の視線が気になって、孝介の機嫌なんて構ってられる余裕はなかった。

「俺、探したんだけど」

「いや、今日だけは探してくれるな」

あたしの嘆きに阿部が苦笑いを浮かべる。

「なんだよ、それ。つーか、お前阿部と何してたの?」

「別に」

あたしの短い言葉に孝介が眉を顰める気配がした。

阿部がしかたねーなって溜息を吐いて、口を開く。

「ちょっと話してただけだよ」

「俺はコイツに訊いてんだけど」

「コイツが答えねぇから教えてやったんだろ」

「お前がコイツ呼ばわりすんな」

「お前、余裕ねぇのな」

「っ……」

どうしてこうなるんだ。

どうして孝介と阿部がこんなことになるのだ。

一瞬にして不穏な空気に包まれてあたしは戸惑った。

こういうときにはいつも先に感情を剥き出しにする阿部が

落ち着きを払った表情のまま棘のある言葉を紡ぐのも珍しいけれど、

特に孝介はらしくなく、冷静を欠いていた。

どうして、今日は本当に何かがいつもと違う。

、教室戻るぞ」

何か言わなきゃと適当な言葉を探していると、いきなり孝介に腕を掴まれた。

上手く反応出来ずに引き上げられるようにして立ち上がる。

「それにしても泉、指輪も用意しないでプロポーズだなんてずいぶん焦ってたんだな?」

阿部の止めの言葉で孝介が凍り付いた。

あたしの腕を掴んでいた手がするりと落ちる。

その手が固く握られ、俄かに震える。

まずい。

そう予感して咄嗟にその手を押えようとした。

しかしその拳は振り上げられることなく、諦めるように緩んでいった。



「誰にも奪われたくねぇから」



孝介の痛いくらい真っ直ぐな視線が阿部に向けられていた。

その横顔は息を呑むほど真摯で、それでいて傷付いたような翳りもあって。

なぜだかあたしはいつのまにか孝介の手を取っていた。

その手は思っていたよりもずっと冷たくて、なにより男の手だった。

孝介が驚いた顔でこっちを見ていたから、周りのどよめきも気にせず更に指を絡めた。

ややあって、孝介は少しだけ泣きそうな顔で笑った。

「孝介」

その声に滲むあたたかな感情を、人は愛しさと呼ぶのだろう。

あぁ、そうだったんだ。

やっとあたしは、あたしたちが今までと違うあたしたちになったのだと知った。



そして、ふたりは恋する男と女に変わる。




























































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