罪と罰





セックスの後、さんはいつも諦めたような顔で俺の額に口付ける。

基本的に彼女は俺のことを年下として扱う事はしないけれど、

そのときばかりはやけに大人びた表情をしていて、いや、実際大人ではあるのだけれど、

俺は一瞬やるせない想いに駆られる。

それでも毎回、不満を隠さないものの何も言わず受け入れるのは、それが現実だからだ。

さんは生まれたときから逃れ難いものを背負っている。

そんなのは一瞬で何もかもなかったように出来ることを俺は知っているけれど、

それを実行したところで、彼女はすべてを失ってしまうのだ。

そしてそれを補うことは俺には出来ない。

実際、それはたかが十四歳の俺がどんなに手を伸ばしたところで消しようのないものだった。

彼女は人よりもずっと多くのものを持っている。

だからといって生まれながら当たり前のようにあったものを奪われて、それで生きていける訳がない。

呼吸の仕方を忘れさせることは、果たして勇気と呼べるのだろうか。

それでも俺はやっぱりさんにどうしようもなく恋をしていて、

浅ましく、愚かに、自分の感情のまま行動することしか結局は出来ないのだ。







眼の前の光景に目眩を覚える。

見るからに上等な振り袖に身を包みよそ行きの顔をした彼女は、どう見ても他とは格が違う御令嬢だった。

分かっていた筈なのに、本当に跡部財閥のお嬢様だったのだと今更痛感する。

彼女の肩を抱く婚約者であろう男性は聴いていたイメージとは随分違って、

社会的地位があるのは勿論、紳士的で、余裕があって、顔立ちだって整っていて、

きっと結婚するには申し分のない相手だと分かる。

さんはどうして俺なんかを、何も持っていないただの中学生の俺なんかを好きになってくれたのだろう。

立ち尽くす俺に視線が集まっているのを感じる。

式は既に終わったらしく、大学部のキャンパスには人が溢れていた。

スーツやドレスで着飾った学生達は写真を撮ったり思い出話をしたりと和んでいたが、

俺の姿を見つけるなりそれを止め、訝しげな視線を送ってきた。

そんなの当然だ。

大学部の卒業式に、中等部の制服を着た明らかに幼い人間がいれば。

場違いにも程がある。

逢瀬を重ねたあの部屋では感じなかったさんとのあいだにある壁を、

俺は嫌でも感じずにはいられなかった。



「日吉、どこに行く気だ」

冷たい空気が漂う昇降口に底から湧くような低い声はよく響いた。

脱ぎ捨てた上履きを下駄箱へと突っ込もうとしていた手が思わず止まる。

首を振れば見慣れた顔があって、

咄嗟に出そうになった舌打ちをどうにか自重してその視線とまっすぐ対峙した。

「跡部さん、いらっしゃったんですか」

実質的には引退という形を取ったものの、

3年生のレギュラー陣はエスカレーター制であることを甘受して日替わりで部に顔を出していた。

だから跡部さんと会うのは久しぶりという程でもない。

けれどもう3月だ。

3年生は卒業を間近に控えていて授業もなく、それを待つばかりとなっている。

今日だって登校する必要はなかった筈だ。

それなのに跡部さんが学校にいるということは、いや、ここにいるということは。

問わずとも自然と浮かぶ。

「まさかとは思ったが、生真面目なお前がこんな時間に学校を抜け出すとはな」

「別に生真面目なんかじゃありませんけど」

生真面目な人間が自分よりもずっと年上な成人女性と、

更に言えば婚約指輪を嵌めている女性と、肉体関係を持つとは到底思えない。

しかも俺は今からそのひとを攫おうとしているのだ。

気が狂ったと思われても弁解の余地があまりにない。

確かに授業を無断で欠席するのは初めてのことだった。

けれどこれからしようとしていることを思えば、そんなのは本当にどうでも良い、瑣末なことだ。

「あのひとに頼まれたんですね」

溜息ながら問う。

あのとき交わした、約束とも言えない俺の一方的な布告。

さんはそれを信じていない。

おそらく、信じられないのではなく、信じない、だ。

だからこのひとを切り札として隠し持っていた。

なんてひとだろう。

怒りよりも悲しみが襲う。

だけどもう、躊躇う猶予は俺には残されていない。

「あなたが何を言おうが、俺は行きますよ。俺はさんに会いに行きます」

に……?」

端正な顔立ちが困惑の色を示し、その明晰な頭のなかにすら突き当たるものがないと訴える。

俺はそこでようやく気付いた。

跡部さんは何も知らないのだ。

俺に差し向けたからには何かすら打ち明けているとばかり思ったのに。

彼女はそうして何もなかったかのような顔で自分の宿命に身を委ねるつもりなのだろう。

すべてを隠して、消して、俺の気持ちすらまるで存在しなかったかのように。

上履きごと手をぎゅっと握り締める。

「あのひとは、愛してもいない男の妻になる為なんかに生まれたんじゃない」

もしそうだったとしても、俺と彼女は出逢ってしまったのだ。

もうなかったことになんか出来やしない。

「お前、もしかしてに惚れてるのか?」

「間違ってませんよ。俺はあのひとがずっと好きだった」

「やめとけ、日吉。アイツはもう……」

「でも、正解じゃありません」

言葉を遮り、手を緩めて上履きを落とした。

ぱたんという音が静寂に染み渡って、

俺は自分が今からしようとしていることを急激に実感し、心臓がざわざわと騒いだ。

ネクタイを引っ張って緩め、シャツの釦をひとつ、ふたつ、みっつ、外して肌開ける。

素肌が凛とした空気に曝け出されて、微かな震えが沸き上がった。

「これ、あなたのお姉さんが付けたものですよ」

息を呑むように、跡部さんがごくりと喉を鳴らす音が聴こえた。

いつも快感に耐えるように彼女が咬み付いていた左肩には、

まるで何かに攻撃されたかのような紫色の狂暴な痕が残っている。

俺はそれを口先では咎めながら、心の底では悦んでいた。

彼女との逢瀬は、言うならば泡沫だった。

そんなことはないと幾ら俺が否定したところで、

あのひとがそうだと無意味に悟れば、そうであるしかなかった。

夢幻の交わりだと思いたくない俺にとってこの痕は、確かに彼女と愛し合った、証だった。

彼女に会えないときでもこれを見ればさんの息遣いが傍で感じられた。

誰にも言えない恋をしたとき、そういうものがとてつもなく愛おしくなるものなのだろう。

そこにそっと指を這わせれば、響くような痛みに微かな笑みが零れた。

「俺はあのひとにずっと愛されてた」

跡部さんは視線を落とすとしばらく黙り込んだ。

さんと跡部さんはあまり似ていないけれど、こういうとき、姉弟なんだな、と思う。

考えごとをしているときに伏し眼がちになるのはさんの癖だった。

「あなたには悪いけれど、さんは俺が攫います」

衣服の乱れを直し、腕に掛けていたコートに袖を通す。

上履きを拾い上げて下駄箱にしまい、革靴を履いて跡部さんに向き直った。

跡部さんは俺が左手に抱えた花束をじっと見つめていた。

花束と呼ぶには貧相な代物だった。

今朝、母親に頼んで枝を折らして貰ったうちの庭の蝋梅。

彼女がいちばん好きな花だ。

「じゃあ失礼します」

すれ違い様、跡部さんが「姉さんを頼む」と小さく呟いたのが聞こえた。



本当に俺がさんを幸せに出来るのだろうか。

何も持っていない俺が、彼女のすべてを奪って。

その不安は、本当は今だって消えていない。

跡部さんの前であんな口を叩いてみせたものの、自信なんて何もないのだ。

どんなに大人ぶったところでさんとの歳の差を埋められる訳もなく、俺は幼い。

罪を犯したところで罰を受けられる余白なんてない。

それを代わりに負うのは彼女だ。

それでも、俺はこの恋を捨てられない。

さんとずっと一緒にいたい。

俺はいつまでもそういうふうに愚直に生きるしか出来ない。

「すみませんがこのひとは俺のなんで触らないでくれますか」

彼女の肩から手をそっと引き剥がしながら告げる。

男は何が何だか分からないという顔で俺を見た。

きっと一生怨むであろう顔だから、よくよく覚えておけば良い。

「日吉くん……」

震えた声で俺の名を呼んださんは、怯えるような眼で俺を見上げている。

顔が少し青褪めているのは寒さの所為だけではないのだろう。

さん、ご卒業おめでとうございます」

抱えていた花束の枝を短く手折って、彼女の耳元に差す。

蝋梅の花はさんによく似合う。

残りの花束を手渡すと、彼女は眼を細めて「ありがとう」と呟いた。

そして俯く。

「遅くなってしまってすみませんでした」

「……来ちゃったのね」

「はい」

「あの子ってば、役立たずなんだから」

「それでも俺が来ることをあなたは知っていたでしょ」

「……そうね、あなたのそういうところに惹かれたんだもの」

泣きそうな顔でさんが俺を見つめる。

このひとが俺以外のものになるくらいだったら世界なんてどうにでもなれば良い。



「約束通り、あなたを攫います」



少女のように泣き出した彼女を腕の中に閉じ込める。

これから罰を受けるのはこのひとだ。

けれど少しでもそれを俺が背負いたくて、彼女をなるべく世界から隠すように包み 込んだ。



























































SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送