記憶の墓標





彼女は眼を瞠ると、俺の言葉をゆっくりと咀嚼する為に充分な時間黙り込んだ。

「どうして?」

振り絞るように出された声は微かに震えていた。

冗談でしょ?、という感じに彼女は笑んでみせたが、上手く笑えていなかった。

「当然だろ? 離れるんだから別れるしかない」

の親が仕事の関係で、無期限で海外へ行かなければいけなくなった。

まだ家族なしで生きていくには俺達は幼過ぎる。

選択の余地はない。

俺とは離れなければならない。

「離れるけど……でも……」

「離れればお前は俺のことを忘れる」

「忘れない……忘れられる訳ないじゃない」

涙に滲んだ瞳が懇願するように見つめてきて、

俺はすべてをなかったことにして今すぐ彼女を抱き締めたくて堪らなくなった。

けれど、きっとは俺を忘れていくだろう。

新しい居場所を見つけ、俺以外の誰かを愛する。

その堪え難い事実に押し潰されたくない。

せめて一欠片でも彼女の中に俺を残したい。

だから傷付けて、俺という人間がいたことを少しでも強く刻みたいのだ。

「生憎だが、お前が忘れなくても俺が忘れる」

俺は嘘を吐いた。

忘れられる筈ない。

を忘れられる筈がない。

こんなに誰かを愛しいと思ったことはなかった。

凛とした佇まいも、澄んだ声も、話すときに言葉を丁寧に選ぶところも、

照れたときの仕草も、俺の姿を見つけたときの柔らかな表情も、空気のように触れる手の温もりも。

の全部が好きだった。

俺はどうしようもなく恋をしていた。

それを己で手放す愚かさを、俺の幼い心を、どうか許さないで。

「じゃあ、元気でな」

どうか、ずっと俺を忘れないで。

「あたしは、日吉くんを忘れないから」



俺はあの頃、14歳だった。

無知で、残酷で、自分を信じていた。

俺は今、24歳で、どうしようもない現実と対峙している。

眼の前の彼女はあいかわらず美しく、心に焼き付けた姿のままだった。



耳元で囁くような、密やかな声で名前を呟いた。

雑踏の中で、それが届くなんてありえなかった。

けれど彼女は立ち止まり、ゆっくりと俺の方を振り向いた。

人の波の向こう側で彼女が柔らかく笑む。

隣の男に別れを告げて手を振ると、俺の元へ足を進めた。

俺は不意に逃げたくなった。

どうして今更出会ってしまったのだろう。

ずっと記憶の奥の片隅に眠っていてくれれば、こんな想いしなくて済んだのに。

「日吉くん、久しぶり」

「……久しぶりだな」

「元気にしてた?」

「あぁ。お前は?」

「うん、元気だった」

「そうか」

「なんか日吉くん、大人っぽくなったね」

「まぁ、背伸びたし」

「女の子にモテるでしょ?」

「何言ってんだよ。お前こそ……さっきの彼氏だろ」

彼女は一瞬だけ表情を歪め、けれどすぐに「違うよ、ただの友達」と小さく笑った。

を傷付けたのだと分かった。

歳月の空白があっても、変わらないものは変わらない。

何か言って繕いたいのに言葉が出てこなくて、会話が途切れた。

の向こうで信号が点滅するのをぼんやりと見つめる。

「もう、10年も経つのか」

彼女の独り言が沈黙に、俺の心に、重たく沈んでいった。

俺はと別れ、彼女のいない10年を生きてきた。

唇噛み、眼を閉じる。

「あたしは、日吉くんを忘れないから」

涙を零しながらも、はまっすぐ俺を見つめてそう言った。

それが俺の記憶に残る最後の彼女の姿だった。

「あたし、日吉くんを忘れなかったよ」

諦めるように瞼を上げる。

まっすぐ俺を見つめるがそこにいる。

「あたしは、ずっと……」

そのとき、彼女の向こうに現実を見た。

黒髪を揺らしながら横断歩道を渡る女性が俺を見つける。

手を振って鮮やかに笑むと俺の名前を呼んだ。

俺の凍り付く顔がの無垢な瞳に映っていた。

すべてを察した彼女は「ごめん、忘れて」と首を振った。

「若さん、お待たせしてしまったみたいでごめんなさい」

「……いや」

「この方はどなた?」

「彼女は……」

「I’m sorry. It only asked the way.(ごめんなさい。ちょっと道を尋ねてただけなの)」

俺は唖然として、口を閉ざした。

「It was so.(そうだったの)」

「It is gentle and a nice boyfriend.(優しくて素敵な彼氏ね)」

「Yes, by too good for me……(そうなの、私には勿体ないくらい……)」

「Please value her.(彼女を大事にね)」

流暢な英語で俺に微笑みかけるにどうしてだと問いたくなった。

けれど俺に彼女を責める資格はない。

「Thank you for kind.(親切にどうもありがとう)」

差し出された左手に預けるように手を伸ばした。

左手の握手は別れの挨拶だと、どこかで聞いたことがある。

の手が、俺の手を空気のように触れ、包み込む。

懐かしい温もりに目頭が熱くなった。

去って行く彼女の後ろ姿を見つめながら、

10年前のあの日、はどんな気持ちで俺の後ろ姿を見つめたのだろうと思った。

俺は忘れないで欲しいとただただ願っていた。

きっと彼女も俺の後ろ姿を見つめながら、同じように忘れないでと願っただろう。

それなのに――

「若さん……どうしたの?」

細い指が俺の濡れた頬をそっと触れる。

その薬指には、誓いの指輪が嵌っているというのに。

「すまない」

が好きだった。

どうしようもなく恋をしていた。

その気持ちに嘘偽りない。

だからあんな馬鹿な真似をしたのだ。

「だけど、もう君とは一緒にいられない」

俺は再び彼女に出会ってしまった。

この10年間、ずっと忘れていたに。

を追うことなど、俺に出来る筈がなかった。

けれど、今度こそ俺は彼女を忘れられないだろうと思った。




























































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