泡沫





セックスの後、日吉くんのおでこにちゅーすると、「なんだよチクショー」という顔をする。

基本的に彼を年下として扱う事はないが、

そのときの顔はやけに幼くて、いや、年相応なあどけなさを持っていて、

あたしは一瞬たじろぐ。

それでも毎回そうするのは、現実を見失わないようにする為。

自分が背負っているものは鉛のように重く、逃れようのないものだ。

あの家に生まれた者の定めとして受け入れてきた。

現実は変わらずそこにある。

それなのに日吉くんと一緒にいると時々それを忘れそうになるのだ。

彼にはそういう魔力みたいなものが備わっている。

不思議な男のひとだ。



さん、煙草はベランダで吸って下さいって言ってるでしょ」

まるで自分の家のように彼が言う。

日吉くんは煙草が好きじゃない。

「うん、ごめんね」って短くなったそれを揉み消すあたしを確認してから

彼はいつものように冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出して飲む。

喉仏が上下に動く様に見惚れる。

シャワーを浴びたばかりの日吉くんの肌は湿っていて、熱っぽい。

もう一度むしゃぶりつきたくなるなぁ。

そう思いながらじっと見つめていたら、視線に気付いて彼がこちらを向いた。

困ったように眉を顰める。

「そんな顔しないで下さい。こっちまで欲情しそうになる」

「うん」

渡されたボトルを一口含む。

冷たくて美味しい。

身体の熱が引いていくのを感じる。

あたしは吃驚するほど簡単に日吉くんに欲情してしまうらしい。

自分でも気付かないうちに、気を抜いた隙にそれがやってくる。

もしかして淫乱なのかな?、って考えたけど、

日吉くん以外には何の欲望も湧いてこないから、

淫乱というよりはちょっとした病気みたいなものなんだと思う。

嫌になっちゃうな。

「そういえばコレ、どうしてくれるんですか?」

細い指が左の肩を示す。

そこは紫色が染み付いていて、もうほとんど痣みたいだ。

「ごめんね。気を付けてるつもりなんだけど夢中になると頭の中が真っ白になっちゃうの」

「知ってます。でもコレ、さすがに誰かに何か言われますよ」

「大丈夫、みんなただの痣としか思わないわよ」

「跡部部長は気付くと思いますけど」

「そんな情熱的な跡を残す女が日吉くんにいるだなんて思わないわ」

「はぁ」

曖昧に返事しながら彼はその跡を指でなぞる。

「結構痛いんですよね、コレ」、なんて呟きながら。

非難めいた声だけど本当は心のどこかで少し喜んでいる事をあたしは知っている。

素直じゃない日吉くんが愛しい。

「じゃあ、コレはどうしてくれるの?」

髪を掻き上げて左耳の後ろ辺りを覗かせる。

まぁ、髪をアップにしない限りは誰にも見つからないだろう。

その程度の小さな跡。

けれどきっとあたしはコレが消えるまで尊いものとして慈しむだろう。

あたしも素直じゃないから言わないけど。

「ねぇ、日吉くん、コレってワザとでしょう?」

意地悪したつもりだったのに日吉くんは悪びれずに「えぇ、ワザとですよ」と答えた。

何の為にこんな事したの?、なんて愚問だ。

左手の薬指のリングに触れる。

ダイヤモンドが孤高に輝いていて、そこだけ別世界みたいだ。

「じゃあ、あたしもワザとって事にしておこうかな」

「見つかったところでそんな相手がいるとは思われないって言ったのはあなたでしょ」

「そうでした」

「それに」

彼が腰掛けてベッドのスプリングが弾む。

ミネラルウォーターが零れそうになった。

「跡部部長はまさか相手がさんだとは思わないですよ」

「ふふふ、景吾は元気?」

「何で俺に訊くんですか?」

「最近会ってないのよ。あまり家に帰ってないし。あの子も色々と忙しいみたいだし」

「あぁ、卒業前ですからね」

一瞬だけ口篭もる。

「卒業祝い、何が良いと思う? 何が喜ぶかしら?」

「俺なんかよりさんの方が分かるでしょ?」

「うーん、でも欲しいものは全て持ってるだろうから」

「そうですね……卒業式に行ってあげるのがいちばん喜ぶんじゃないですか?」

「あの人、あれでシスコンですから」、と続けて日吉くんが少し笑った。

景吾と最後に会ったのはお正月に実家に戻った時だ。

あの人の隣で引き攣る一歩手前の笑顔を浮かべるあたしを見て、

心底納得いかないという顔をして赤ワインを呷っていた。

「姉さん、本当に良いのかよ?」

それが最後に交わした言葉だった。

いつもはって呼び捨てするクセに、あんなのってずるいと思う。

あたしは何も返せなかった。

「ありがとう、参考になったわ」

日吉くんががしがしとタオルで髪を拭き始める。

そんな無造作な扱いでどうしてこんな綺麗なのか不思議だ。

指を差し込むとさらさらと零れ落ちてしまう絹糸のような髪。

捕まえたくても捕まえられない。

あたしのものには決してなりはしない。

彼の背中を見つめた。

まだ逞しいという印象はない。

けれどちゃんと男のひとの背中をしている。

あたしのものにはならなくても、

せめて日吉くんが大人へと成長するのを見守れたら素敵だなと思って、ひっそりと笑った。

さん」

「なぁに」

さんは卒業祝い、何が良いですか?」

なんて人だろう。

泣きたい気持ちを通り越して寂しい明朗な気分になった。

「あたしも日吉くんに卒業式来て欲しいな」

大袈裟な溜息が零れる。

「無茶言わないで下さい」

「別に無茶な事なんて言ってないわ」

「大学生の卒業式に中学生がのこのこ行ける訳ないでしょう」

「ふふ、冗談よ。それに……」

想像しただけでげんなりした。

「あの人が来るもの」

きっと馬鹿のひとつ覚えみたいに真っ赤な薔薇の大きな花束を抱えて。

あの育ちの良さを感じさせる無知で甘ったれな顔を緩めて、

さん、ご卒業おめでとうございます」とあたしの肩を抱くのだろう。

あの人は正真正銘のつまらない男だ。

けれどそんな事は関係のない。

「それなら行きます」

「え?」

思考を中断して顔を上げると、恐ろしく真剣な日吉くんの眼とぶつかった。

あたしの好きな眼。

だけど、だけれど。

「何言ってるのよ」

そう言って眼を逸らした。

「その人の前でさんを攫います」

「……やめて。あたし、結婚するのよ?」

夢みたいな事言わないで。

あたしを期待させないで。

誰もが少なからずそうであるように、

あたしにもこの世に生まれ落ちた瞬間から宿命があるのだ。

親が決めた、愛してもいない男の妻になる。

駒のように人生が動かされていく。

そこから逃げ出す事は出来ない。

魚がどれだけしなやかに泳いでいても、水の中でしか生きていけないのと同じ。

あたしに与えられた選択肢は、その瞬間までこうして日吉くんと過ごす事くらいしかない。

人魚姫が王子と出会ってしまったように、あたしは日吉くんに出会ってしまった。

けれど世界はふたりを別つ。

あたしは水の中に帰る運命。

あたしの知らないところで日吉くんは誰かと幸せに生きていく。

こうして過ごす時間が想い出として少しでも彼の中に残ってくれる事をただ願うだけだ。

「そんな事、俺はさせませんよ」

あたしの好きな眼を見る。

どうしてあなたはそうなの?

あたしを泣かせないで。

「絶対させない」

腕が伸びてきて、一瞬逃げようかと思った。

でも、本当はその腕を望んでいたあたしはあっけなく抱き締められた。

日吉くんの匂いに満たされて、息苦しい。

このまま消えてしまえたら良いのに。

人魚姫みたいに、この人と生きていけないなら泡になって消えてしまいたい。

そんな子供じみた考えが、ほんの一瞬だけ脳裏を掠める。

「本当に卒業式来てくれる?」

「はい」

「あの人の前であたしを攫ってくれるの?」

「はい」

「そんな事したら色々な事が滅茶苦茶になるわよ?」

さんが俺以外のものになるくらいだったら世界なんて滅茶苦茶になれば良い」

あたしを包む腕に力が増す。

あぁ、あたし彼のこういうところが好きだな、と思う。

まっすぐで、ひたむきで、まぶしい。

「あなたが好きなんです」

「あたしも、日吉くんが好きよ」

けれど、きっとあたしは卒業したら親が言うままに愛してもいない男と結婚するだろう。

日吉くんの事を思い出しながら、平和で退屈で絶望的な毎日を生きていくだろう。



「俺とずっと一緒にいて下さい」



嗚呼、それでも――

この腕の中にいると、本当にこの人と一生一緒にいられるような、

そんな甘い錯覚をしてしまうのだ。




























































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