雪よ、どうか止まないで





それがアイツだと分かったのは偶然じゃない。

雪に覆われて真っ白な空間に、ぽつりと浮かぶ紅。

外はこの土地ならではの強風が粉雪を攫い、吹雪と化している。

ほとんどの生徒はHRを終えると避難するように下校していて、

学校には委員会の所為で逃げ遅れた俺みたいな奴が数えられる程度残っているくらいだ。

そいつらも日没には雪が上がるという予報を信じて大人しく時間をやり過ごしていることだろう。

そんな空の下、ふわふわ揺れながら亀の歩で進んでいく傘は不自然過ぎた。

それに、その紅い傘は何の変哲もないものだけれど、

アイツと最後に言葉を交わした日の情景に強く刻まれていた。

あ、だ……、ってすぐに気付いた。

身体は勝手だ。

気付いたら無意識に俺は駆け出していた。

っ!」

風に舞う色素の薄い髪と華奢な背中を見つけて、俺は確信して名前を呼んだ。

のっそりした足取りを止めて、ゆっくりと振り向く。

そんな些細な一連の動きのあいだに俺との距離はあっというまに縮んだ。

「あ」

が小さく声を洩らす。

薄い肩を掴むとが緊張したのが伝わった。

逃げられるかもしれない。

そう思ったけれど、は立ち止まったままきょとんと俺を見つめた。

「馬鹿、何してんだよ」

「え? 何って、家に帰ろうかと」

「雪降ってるじゃねーか」

「うん、でも傘あるもの」

「こんな吹雪いてるのに傘なんて意味ねぇだろ」

はよく意味が分かっていないのか、瞬きを数回繰り返す。

長い睫毛に乗った雪がじわりと溶けていく。

「大丈夫。家、そんな遠くないし」

「お前の歩くペースじゃいつ家着くか分かんねーよ」

「でも、帰ってピアノ弾きたい」

「馬鹿、風邪引くだろ」

「だって……」

「良いから来い」

これ以上の問答は無駄だと判断して、の手を無理矢理引いて校舎に戻った。

は黙ってされるがままだった。

そのあいだの沈黙は重かった。

雪の日の静けさには重過ぎるくらい、重かった。

そりゃそうだ。

俺とが言葉を交わしたのは実に1年ぶりのことだったのだから。

「叶」

久しぶりに聞くその響きに心臓が跳ねる。

けれどそれをなんとか誤魔化す。

「駄目なもんは駄目だ。絶対風邪引くって」

「ん、違くて」

「なんだよ」

「手」

「あ?」

「分かったから手、離して欲しい」

そのとき初めての手を握り締めていたことに気付いて、慌ててその手を離した。

「わ、悪ぃ!」

「ううん」

は指を大事にしているから、冬になると外ではきちんと手袋を嵌める習慣がある。

今もグレーの柔らかな手袋に包まれている。

温もりを阻むその存在の所為で俺はちょっとしたミスを犯した。

に触れていた掌が一瞬熱くなった気がした。

そんな訳ないのに。

若干の気まずさを無視することに決め込んで、靴を脱ぐ。

気まずいのなんて今更だ。

「ねぇ、ここ男子部の校舎」

「あ? うん」

「良いの?」

「別に女子禁制って訳でもねぇし、こんなときにそんなこと構ってられるかよ」

どうせ生徒達はもうほとんど残っていない。

教師達ものんびり茶でも啜りながら気象ニュースと睨めっこしているだろう。

誰を気にする必要もない。

「あったかい」

をストーブの前に座らせると、白い頬にじんわり紅みが差した。

手袋を外した手を温風に翳すとの細い指先が溶けていくようで、

俺はやっと自分のした行動に自信が持てた。

が身体を温めているあいだ、ぼんやりと窓の外を見つめる。

また雪が激しさを増してきていた。

本当にこの雪は日没までに止むのか、少し気掛かりになった。

自分の行動が発端とはいえ、このまま長い時間をとふたりっきりで過ごすのは危うい。

「なんか、久しぶりだね」

「元気だったか?」

「うん。叶は野球頑張ってるみたいだね」

「ルリから聴いてる」という言葉をぼんやり聞きながら、今更ながらこんな状況は奇跡的だなと思う。

と会話してる。

それだけのことなのに、懐かしさに胸が詰まる。

は?」

「ん、普通に学校行って、授業受けて、ピアノ弾いて、そんな毎日」

「そっか」

は出会ったときからピアノを弾いてばかりいた。

俺の生活には当たり前のように野球が組み込まれている。

それと同じように、の生活にピアノが存在しないことはない。

「叶、別れよう?」

だから俺は自分に負けて、その言葉に頷いてしまったのだ。

正直、俺達の付き合いなんて友達のちょっと先を行った程度のものだった。

昼休みを一緒に過ごして、一緒に帰って、時々はふたりで出掛けて。

そんなささやかなものだった。

俺達は中学生で、そんなささやかなものも充分意味があったのだ。

のなかに流れる穏やかでゆったりとした時間を感じられることが、俺にとっての幸せだった。

その時間の流れに焦燥が滲み始めたのは、中学3年の冬だった。

本来なら受験に追われる筈の季節だったけれど、エスカレーターの三星にそんな空気はなかった。

廉が練習の合間に陰で単語帳を開いているのを見て、

あぁ、世間ではそういう時期なんだなぁとなんとなく思ったくらいだった。

がいつも以上にピアノに時間と心を割いていることには気付いていた。

あのが、切羽詰まったようにピアノと向かい合っていて、なんとなく不安に駆られた。

けれど俺は思いも寄らなかった。

「別れたい」

「……なんで?」

それが精一杯の俺の言葉だった。

雪が舞い降りるなか、は紅い傘を差して立っていた。

その白と紅のコントラストが頭に焼き付いて、今でも離れない。

「あたし、外部の高校受けることにしたの」

「え……」

「もっとピアノを弾きたいの。だから、東京の音校受けることにした」

「……なんで? ピアノやりたきゃここでも出来るじゃん。

 音校行きたいなら群馬にだってあるし、わざわざ東京まで行く必要なんて……」

が悲しげに首を振った。

の決意の固さがすぐに分かった。

「叶、別れよう?」

引き留める言葉は俺にはなかった。

のやりたいことを止められる筈がなかった。

だけど、その距離に抗える絆もまだ育めていなかった。

そうして俺達は別れた。

だけど運命というのは皮肉なものだ。

は雪に足を取られて階段から落ちた老人を助け、試験を受けることなく受験を終えた。

行き場をなくしたは結局三星に残ることになった。

けれど俺達はもう戻れなかった。

隔てる距離がなくなったところで、今更心の距離まで埋められる筈がなかった。

だって、互いに一度はその別れを認めてしまったのだ。

もう、戻れない。

それでも俺はそれを覆そうと何度か挑んだ。

また一緒にいるという選択肢もあるのではないか?

だって、お互いに好きという気持ちがあって一緒にいたのだから。

けれどは尽く俺を避け、別れから何も言えないまま時間だけが過ぎてしまった。

時間は残酷だ。

はあの頃よりもっと綺麗になった。

隣に座って肩を寄せると、から金木犀のような匂いが香った。

「叶、なんか、近い」

「こうしてるとあったかくね?」

「うん……そうだね」

睫毛を伏せるの横顔を見て、俺は不意に泣きたくなった。

こうしていると、あの頃と何ら変わりない。

戻れるんじゃないかって、期待しそうになる。

俺は今でも、戻れるなら戻りたい。

頭の中で、好きだと譫言みたいに繰り返す。

雪が降る音すら聞こえきそうなくらい、静かだった。

だから、もしかしてそれが聞こえてしまうんじゃないかと思って少し恐くなった。

そう、本当に静か過ぎた。

……?」

いつもだったら気付かなかったかもしれない。

恐る恐る覗き込むと、の閉ざした瞳から堰を切ったように涙がぼろぼろ零れ落ちていた。

は声も出さず、静かに泣いていた。

ただ、雫が零れ落ちる音が空気を震わせていた。

「ごめん、やっぱり帰る」

立ち上がろうとしたの腕を慌てて掴む。

「離して」

「ごめん、でも……」

「お願いだから離して。もう帰りたい」

「でも、日没には雪止むってニュースで言ってたからそれまでは……」

「それまで待てない」

「今帰ったら絶対風邪引くって」

「風邪引いた方がマシ」

強張っていたの身体から力が抜けていく。

今にも溶けて、消えて、なくなってしまいそうだった。

「もう嫌だ」

は両手で顔を覆うと、弱々しい声で呟いた。

「叶といると、可笑しくなりそうなんだよ」

ごめん。

でも、それでも俺はと一緒にいたい。

無理だと分かっていても、俺は願わずにはいられない。

そっと手を伸ばして、を抱き寄せる。

「叶、何して……」

、俺……」

静寂に響く俺の言葉が途切れた。

唇を噛んで、俯く。

こんなこと意味ないのに。

俺の心があの日に置き去りにされていても、

の心が全く違うものになっているのに充分過ぎる時間があれから経った。

そもそも、俺は避けられていたのだ。

それはたぶん、少しはの心があの日に残っていたからだと思う。

今日、は逃げなかった。

きっとそういうことなのだろう。

駄目だ。

を傷付けたくはない。

俺には言えない。

「雪が止むまでで良いから……」

ゆっくりと力が抜けて、の身体が俺の胸に委ねられた。

俺はもう、雪なんて止まなければ良いと祈るように思った。

もし雪が止んだら――

それでもまだ、俺は愚かにも一緒にいたいと請うてしまうかもしれない。

だからどうか、雪よ。



























































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