千年の初戀





春の風が制服のスカートと長い髪を翻す。

あたしは眼を細め、それを手で押さえながら眼の前の人物が口を開くのを焦れったい気持ちで待っている。

この男が今から何を言おうとしているか、そんなことはもうとっくに分かっている。

男子生徒が人気のない場所へあたしを呼び出したとき、並べる言葉はみんな同じだ。

そしてそれに返す言葉も、また。

春は嫌いだ。

なんとなく憂鬱な気持ちになって、どこか落ち着かなくて、心が冴えない。

「好きです、付き合って下さい」

男がやっと言葉を発したかと思えばやっぱり想像通り、お決まりの文句だった。

あたしは面倒だと思う率直な気持ちを極力隠して、いつもの言葉を舌に乗せる。

「ごめんなさい」

人が人を戀するということがどういうことなのか、あたしはまだ知らない。

だから同情だとかいう感情は湧かない。

ただ叶わぬ想いと対峙するのはなかなか精神を消耗する、と思う。

今すぐこの場から離れたくて、あたしは踵を返して校舎へと戻る道程を進んだ。

後頭部が微かに痛む。

なんだか身体が重くて、意識が遠い。

まだあの夢のなかにいるような浮遊感が纏わり付いている。

「春なんて、嫌い」

小さく呟いた言葉を風が攫っていった。



十三、四くらいの歳の少年だった。

桜が舞う庭で焦がれるような視線に気付いてそちらを見上げると、

彼は桜の枝に腰掛けて、その痛いくらいまっすぐで穢れのない眼であたしを見つめていた。

彼には右眼がなかったと思う。

見えない、ではなく、存在しない。

眼帯を付けていたから本当のところはどうかよく分からなかったけれど、

すっと入り込むように、それが分かった。

瞬間的に、彼はあたしにとって特別になった。

理屈じゃない。

何を介することもなく、彼はあたしの心に直に触れて消えていった。

初戀だった。

光景が変わり、あたしは裏庭で仕えている誰かの為に花を咲かせた金木犀の枝を折っていた。

鋏を動かすとぱちんと音を立てて、細い枝がまた折れる。

空気が揺れると同時に辺りいっぱいに立ち込めた甘い匂いが肺まで流れ込んできて、噎せ返りそうになった。

と、そのとき、ふと視線を感じた。

その視線をあたしは知っていた。

熱を帯びた真摯な視線があたしを愛撫する。

駆け上ってくる、金木犀の香よりも甘い感覚。

けれど振り向くことはせず、折った枝を左腕に抱えてその場を立ち去った。

彼の想いには応えられない。

あたしはそんな立場にはいなかった。

あたしの気持ちがどうであれそれは事実で、無知な振りをすることだけがあたしの術だった。

また光景が変わり、あたしの視界には雪を薄く纏った椿が咲き誇っていた。

椿は好きじゃなかった。

美しいけれど、どこか死の匂いを漂わせて誘う華。

それが今のあたしには気味が悪いほどに似つかわしい。

隣に並んだ彼が死を宣告し、ゆっくりとそちらを見る。

出逢った頃よりずっと幼さが抜けて沢山のものを背負った彼はもう少年ではなくて。

けれどあたしを必死に求める右眼はあの頃のままだ。

それを眼の前に突き付けられると胸が詰まって、瞼に覆われた空洞を指先で愛した。

最初で最期の、戯れだった。

春は、あの季節はもう二度とやってこない。

「せめて最期に、もう一度政宗様と桜が見とうございました」

「俺もだ」

――暗転。



いつもはお弁当を自分で作って持って来ているけれどこの季節になるとそんな気になれなくて、

購買で買ったサンドイッチを少しだけ摘み、デザートのプリンは勿論手付かず。

食べ物が上手く喉を通ってくれないからリプトンのレモンティーでとりあえず胃を誤魔化す。

そうしているのもなんとなく限界で、ストローを齧りながら

眼の前の少女が丁寧に作られたお弁当を、これまた丁寧に食べる姿を眺めていた。

、お行儀悪いよ」

「ん?」

「ストロー」

幼馴染みの愛は高校に至るまで同じ学校に通ってはいるものの、育ちの良いお嬢様だ。

どうしてかは未だに謎だけれど、

同じ歳であるにも関わらずどうやら愛はあたしを姉のように慕っていてくれているらしい。

あたしが適当に決めた高校に親の反対を押し切ってまで受験した愛の心中はよく分からない。

それでもあたしもやっぱり愛が好きで、可愛くて、とてつもなく大事だ。

生まれ落ちたときから決まっていたことのように。

「知ってる? ストロー咬むのって欲求不満のシグナルなんだって」

それを聴き不本意ながら気恥ずかしい気分になってストローを口から離すと、愛が可笑しそうに笑った。

「ねぇ、はどうして彼氏作らないの?」

「どうして、って、言われても」

「今日も告白されたのに断ったんでしょう?」

「うん」

から恋愛相談とか聞いたことないけど、

 言わないだけでもしかして好きなひとがいるのかなぁ、と思って……」

「ばか、いたら愛に言わない訳ないじゃない」

寂しそうに笑う愛の頭をふわりと撫でると彼女はその名通り、愛らしくはにかんだ。

誰かに戀して日々を生きるというのは、どんなものなんだろうか。

あたしにとって戀というものは、どこか遠くの世界に存在するものだ。

あたしだって思春期の少女だ。

そういうことに想いを馳せたことがない訳ではない。

でも、あたしたちの年代がごくごく普通に想像するそれとあたしのそれとでは随分とずれがある。

戀というものを想うとき、それはとても痛くて、切なくて、苦しくて、哀しい。

だから戀をしたいと思ったことはない。

もしかしてあたしは一生という長い年月を誰に戀することもなく終えるのかもしれない。

だってこの歳にもなって戀をしたことがまだないなんて。

初戀。

その響きにくらりと思考が霞み、あの少年の姿が鮮やかに過る。

それはあまりにもリアルだった。

「そういえばね、1組に転校生が来たんだって。すごくカッコイイらしんだけど眼が……」

駄目だ。

彼があたしを呼んでいる。

引き寄せようとしている。

彼があたしを浸食していって、夢か現かの境界を曖昧にしているのだ。

……?」

「ん……ごめん、愛。なんか気分優れないから午後の授業は受けずにもう帰るよ」

「大丈夫? ひとりで帰れる?」

「大丈夫だから心配しないで。あ、このプリンあげる」

押し付けられたプリンを握り締めたままあたしを心配そうに見つめる愛に精一杯の笑みを向け、

適当に荷物を詰め込んだ鞄を片手に教室を出た。

廊下に集う生徒達の脇をすり抜けて、昇降口へと続く階段を下りていく。

あの夢は一体何なのだろう。

どうしてあんな夢を見るのだろう。

いつからだったかは覚えていないけど、春になると必ずあの夢を見るようになった。

走馬灯のように流れていく、まるで自分のなかに眠る記憶のように鮮明な夢。

彼と戀した日々。

彼は――あの後、彼はどんな日々を生きたのだろう。

戀した女を自らの手で殺め、失い、それで幸せな人生を送れたのだろうか。

もしかしてそんなことなんて忘れて、違う誰かに戀して生を全うしたかもしれない。

いや、あのお方はそんな器用な心など持ち合わせていない。

最期のときまで自分に課せられた宿命と私の短く散った命を心のどこかで嘆き苦しんでいたに違いない。

可哀想なひと、私はそれも本望だったのに……。

「えっ……」

そこまで考えてぞっとした。

あたしは今、何を考えていたのだろう。

あたし以外の何者かであるかのように流れていった思考。

恐ろしくなって、慌ててローファーに履き替えて校舎を飛び出した。

どうして。

どうして、どうしてどうしてどうして、春は。

――

春一番が吹き抜けて、辺り一面に桜の花弁が舞った。

何もかもを奪うように。

「……」

校門の傍らに立った一本の桜の木に、一人の男子生徒が凭れていた。

彼は痛いくらいまっすぐで穢れのない眼であたしを見つめている。

眼を逸らせない。

「俺が誰だか分かるか?」

熱を帯びた真摯な視線。

その視線をあたしはよく知っていた。

「俺にはアンタが誰だか分かる」

胸が熱くて痛い。

その右眼が泣いているのが分かるから、あたしはそこに触れたくてしかたがない。

なんだろう、この気持ちは。

「その眼を、その透明な瞳を忘れられる筈がねぇ」

この気持ちをなんというのだろう。

、会いたかった……」

彼の腕が伸びてくるのがスローモーションで見えた。

その逞しさからは想像を絶するような優しさであたしを包む。

彼の肩越しに見える桜が滲んで映って、あたしは自分が泣いていることに気付いた。

その瞬間、理解した。

あたしは、この世に生まれ落ちたそのときからずっとこの人と廻り逢う春を待っていたのだ。

初戀だった。












『お前とまた桜を見られる日を、ずっと待ってた』

『私もずっとお待ちしておりました、政宗様』




























































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