春の箱庭




柔らかな風が頬を撫で、髪を靡かせる。

花曇りの昼下がりは優しい。

雲雀の囀りや芳しい梅の香に春の訪れを感じ、自然と顔が綻ぶ。

一時でもこんな穏やかな気持ちになれるのは乱世の波が引いていっているからだと思って良いのだろうか。

否、分かってはいるのだ。

太閤殿下はもう長くないと聞く。

天下はまた荒れるのが必然、乱世の幕はまだ降りそうもない。

けれど、手の中の折り鶴がそうであって欲しいと願わせる。

鹿の子模様の千代紙のそれは父上様に渡して欲しいと五郎八姫様から預かったもので、

幼子が折ったとは思えないくらい綺麗な出来映えだ。

政宗様は大変喜ばれると思いますよと頭を撫でると、姫様は安堵したように笑った。

きっと政宗様を思い遣ってのことなのだろう、と思った。

五郎八姫様は今まで俺しか気付かなかった政宗様の心の機微を感じ取ったのだ。

政宗様はこの季節になるといつもそうだった。

毎日のように桜の木の元へと足を運び、蕾が開くのを今か今かと待ち続ける。

その行為を除けば普段と何も変わらぬご様子で、それで何がどうということはない。

やるべきことはきちんとこなし、いつもと同じように日々を繰り返す。

けれど、何かが違っているのを俺は感じていた。

そしてそれが、政宗様にとって大きな意味を持っていることも。

一度だけ尋ねたことがある。

「右眼が痛むんだ」

政宗様はそれだけ呟いて笑い、口を噤んだ。

それは俺にも許されない、誰にも踏み込むことの出来ぬ領域だという答えだった。

俺に出来るのはただ傍に寄り添うことだけ。

だから理由は知らない。

知らないが、その背中には覚えがあった。



長い冬が続いた年だった。

弥生月になっても春の気配はなく、そのままその季節に閉ざされてしまうような錯覚があった。

その冬、最後の雪が降った日の朝のことだった。

いつも通りの刻に政宗様を起こしに寝所へ赴いたが、政宗様の姿は羽織と愛刀の景秀と共に消えていた。

政宗様には早くに眼が覚めても定時に誰かが起こしに行くまで起床しないという妙な拘りがあった。

だから今まで一度たりともそんなことはなかった。

抜け殻となった布団は冷えていて、その冷たさが俺の心にまで響くようだった。

戦のときですらそんなことはなかったのに、指先が俄に震えた。

焦る気持ちで政宗様を捜し足早に回廊を歩く最中、それに気付けたのは今でも不思議だ。

見落としてもしかたがないような、眼を凝らして見なければ分からない跡。

白く覆われた大地に残された足跡はどことなく頼りなく、けれど意思を持ってまっすぐ続いていた。

政宗様だ、と迷うことなく思った。

やけに大きな、己の心臓が脈打つ音。

裏庭の方へと伸びたそれを辿って一歩一歩足を進める毎に

禁を犯しているような後ろめたい気持ちに襲われて、心が挫けそうになった。

それでもやっぱり俺に出来ることは、あのお方に寄り添うことだけなのだ。

そして俺は、その背中と出逢った。

政宗様は、血の海の真ん中で佇んでいた。

寒空の下で立ち尽くす姿は、何かが過ぎ去るのを耐えているようにも思えたし、

何かが訪れるのに身構えているようにも思えた。

静かで、穏やかで、けれど確実に何かが失われたその背中は、右眼を失ったあの日を彷彿とさせた。

言葉が出なかった。

いや、言葉という次元ではない。

声を発した瞬間、儚くも美しいその空間が跡形もなく散って消えてしまうようだった。

政宗様の足元で倒れているその女には見覚えがあった。

愛姫様の侍女の、という女だった。

その亡骸は政宗様の羽織を纏っており、傍らには供えられたかのように紅い椿が転がっていた。

それが何故か幸福そうに見えた。

「小十郎」

凛とした声だった。

「この女は俺の命を狙ったので死罪とした。丁重に弔っておけ」

そう言って振り向いた政宗様に俺は息を呑んだ。

今まで見たこともない、とても優しいお顔だった。

そして、失った筈の右眼が、確かに泣いているように思われた。



あれが事の始まりだったのか、それとも事の終わりだったのか、俺にはよく分からない。

けれどあの日の出来事がすべてであることに違いはなかった。

桜の木の前で立ち尽くすその背中はやはりあのときの背中だと思う。

「政宗様、またここにいらしたのですか」

政宗様はまたお前かというような顔をして振り向き、視線を俺の手元に落とした。

「五郎八か」

「はい、父上様にということなのでお預かり致しました」

「……そうか」

その笑みには自嘲の陰があった。

眼帯を外して右眼を晒した政宗様は、いつもよりも無防備に映る。

政宗様の指先が、慈しむようにそっと折り鶴の羽を撫でていく。

五郎八姫様への愛がそこに垣間見える。

政宗様と愛姫様が縁組みしたのは随分と昔のことのように思えるが、

本当の意味で夫婦となられてからはそれほど時間が経っていない。

愛姫がお輿入れしたのはまだ年端のいかぬ幼女の頃だった。

それだけでもふたりには時間が必要だと思われたが、

政宗様が乳母をはじめ多くの愛姫様付きの侍女を死罪としたことにより、姫様は政宗様に心を閉ざした。

特にあのという名の侍女が死罪になったときの愛姫様の嘆きようは、

一介の腰元を失ったものとは思えなかった。

あれがふたりを分かつ、決定的な出来事だった。

後に、愛姫様はあの侍女を姉のように慕っていたと誰かから聴いた。

ふたりが心を通い合わせ、五郎八姫様が生まれるまでには長い道程だったのだ。

家督を継げる男の子ではないが、それでも政宗様は姫様を宝のように大事にしている。

「小十郎、お前は昔話を聴きたいか?」

いつまでもこうしている訳にはいかないのだということは、政宗様がいちばん分かっているのだろう。

守るべきものを人より多く抱えたこのお方は。

だからこそこんなに心を痛めていらっしゃるのだ。

「政宗様の事は全て知りたいと思っております」

「……昔の話だ」

政宗様はふと笑むと、背中を向けて再び視線を桜へと戻した。

桜の枝には今か今かと春を待って膨らんだ蕾が控えている。

その日は、近い。

「俺は一人の女と出逢った。透明な瞳の女だ。

 俺はあの眼が欲しいと、俺だけのものにしたいと、思った。初戀だった」

記憶を辿るように、政宗様がそっと右眼に触れる。

「その女は、もう一度一緒に桜が見たかったと言って春を待たずして死を選んだ」

「その女子は……」

言葉が途切れた。

訊かずとももう分かっていた。

眼を伏せると脳裏にあの日の幸福そうな亡骸が過った。

右眼から手を離し、その手で政宗様はまた折り鶴の羽を撫でた。

政宗様は何かの為に己を犠牲にし過ぎている。

それもまた宿命というならば、このお方が自分の幸せを選び掴むことなど出来ないというのか。

「小十郎、俺は愛を愛している。妻として、あれは良くやってくれていると思っている。けどな……」

振り向く政宗様の姿があの日と重なった。

その右眼が、俺にはまだ泣いているように思われるのだ。

「けど、俺が惚れたのはあの美しい眼をした女、アイツ、ただひとりだ」

嗚呼、と思う。

「俺にとって最初で最後の戀だった」

嗚呼、ここに政宗様はいない。

ここにあるのは政宗様の器だけだ。

訪れる筈だった春を、もう二度と来ることのない春を求めて心は彷徨っている。

この崇高で一途な魂の救済は誰にも出来ない。

俺がお傍にいたところであの眼を欲する政宗様の狂おしいほどの心を慰めることも、

ましてや埋め合わせることも、出来まい。

「生まれ変わったらアイツとまた桜が見たい、だなんて……笑える昔話だろ?」

俺はただ、その悲しい微笑みを見つめ続けていた。

春になったら、政宗様はまたあのという女子の墓に一枝の桜を手向けるのだろう。




























































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