優しさの終焉





爪先がじんわりと冷たい。

一歩一歩足を前へ出す毎に草蛙が雪を踏み締める鈍い音が響く。

昨夜床に着く頃から舞うように降り出した雪は一晩で辺りを銀景色に変えた。

弥生月にしては珍しいことだった。

北国とはいえ、この頃になれば少しずつだが春の気配を感じられるようになってくるものだが、

今年は抗うように冬が根付いて離れようとしない。

それは待ってくれと懇願するように。

東雲に眼覚めたのも妙に空気が冷え込んでいる所為だろう。

羽織は肩に掛けてきたものの、寝間着姿のままではやはり寒い。

空を仰ぐと己の白い息の向こう、霞んだ暁月夜が浮かんでいて眼を細める。

こんなに静かで美しい夜明けを俺は知らない。

不思議と恐ろしさはなかった。

覚悟なんて、ない。

それでも心は狂ったように穏やかで、失った筈の右眼がほんの少し痛んだ。



数え年で十四の頃だった。

田村との結び付きを強くする為にその娘、愛姫を正室に迎えることとなった。

縁組みなんかより早く初陣に出たい、色恋沙汰とは縁遠い幼子ではあったが、

どうせ妻に娶るなら器量は良いに越したことはない。

本来ならば祝言まで相手の姿を眼にするなど御法度だと承知していたが好奇心に負けた。

祝言当日、俺は小十郎の眼を盗み城内に植えられた桜の木によじ登って身を潜めた。

そこならば満開に咲き誇る桜が俺を覆い隠してくれて小十郎の眼を欺けそうだと思ったし、

なにより愛姫の輿入れを見届けるには特等席だったから。

籠から降りてきた愛姫はまだ月のものすらなさそうなほど幼く、俺は少々面を喰らってしまった。

“妻”という響きにはあまりに似つかわしくない、あどけない姫君だった。

しかしよくよく見るとその愛称に恥じることない姫だと知れて、とりあえず胸を撫で下ろした。

しばらくは飯事遊びのような夫婦になるだろうが、家督を継ぐ頃までに寄り添えれば良い。

そんなことを考えていると小十郎が俺を探し呼ぶ声が遠くで聞こえた。

流石にそろそろ戻らないとお小言が説教に変わり兼ねない。

溜息をひとつ吐いて木から降りようとしたときだった。

ある少女に眼が、心が、奪われた。

籠から降りようとする愛姫の手を取るその少女は、

姫と同じように肌は穢れなく白く、絹糸の髪は黒く、愛らしい唇は紅く、

侍女にしとくにしては勿体ないくらい美しい女子だった。

とはいえ絶世の美女という程のものではない。

少し眼を惹く程度。

それにも関わらず俺はその少女を左眼に映したまま、動けなくなってしまった。

呼吸を忘れそうになって、息が苦しかった。

と、少女がゆっくりとこちらを見た。

俺を吸い込んでしまいそうな透明な瞳。

途端に羞恥心に襲われて、逃げるように木から降り立って走った。

欲しい、と思った。

あの眼を俺だけのものにしたい。

初戀だった。



彼女を見つけるのは酷く簡単だった。

いや、それは正しくない。

俺は最初からそこにいることを知っていた気がする。

彼女は裏庭にある雪化粧のされた椿の前に立ち、それをじっと見つめていた。



小さく呟いたつもりだったがその声はよく響いた。

彼女がふわりとこちらを向き、微笑む。

は雪に溶けてしまいそうな白い小袖を纏っていた。

白装束みたいだと思った。

「おはようございます、政宗様」

「そんな薄着じゃ寒いだろ」

羽織を肩から落としての華奢な肩に掛けようとしたが、小さな手がやんわりとそれを拒んだ。

「私は大丈夫でございます。それよりも政宗様がお風邪でも召されたら愛姫様が悲しまれる故……」

すべてを言い終わる前に無理矢理彼女の身体に羽織を巻き付けた。

彼女は困ったようにこちらを見たが、もう何も言わなかった。

黙ってまた椿を見つめる。

伏せた睫毛が白い肌に影を落としていた。

それが奇跡的な出来事のように、俺の胸を熱くさせる。

そういえば、彼女と出逢ってから結構な年月が立つがこうして並ぶのは初めてのことだと気付いた。

「椿は好きか」

「いいえ。椿は好きではございません」

「そうか。俺も好きじゃない」

それでも彼女が最期に選んだのはこの華。

椿は美しく、絶望的だ。

脇に差した景秀の柄にそっと手を置く。

「愛姫の侍女、。奥州筆頭、伊達政宗の暗殺未遂の嫌疑でお前をここで死罪とする」

彼女がゆっくりとこちらを見た。

俺を吸い込んでしまいそうな透明な瞳はあの頃のままだ。

不意に泣きそうになって瞼を閉じた。

人が人を戀するということはとても残酷だ。

すっと彼女の腕が伸びてくる気配がした。

そして、彼女の細く柔らかな指先がいつも隠し続けていた俺の空虚な右眼に触れた。

慰めるような、慈しむような、その行為。

接吻を交わすよりも契りを交わすよりも、俺にとっては意味があった。

「俺の初戀はアンタだった。が、ずっと好きだった」

「存じておりました」

「なんで黙ってた」

「それが女子の優しさにございます」

「俺の命を狙ったのは何故だ」

「もう、優しくすることに疲れてしまったのです」

指先が離れていき、別れを告げる。

「せめて最期に、もう一度政宗様と桜が見とうございました」

「俺もだ」

眼を開き、景秀を鞘から抜いた。

一瞬で、終わった。

景秀を捨て、跪く。

雪の上に倒れる彼女の血塗れた頬をそっと撫でると、まだ温かかった。

「俺ももう一度、アンタと一緒に桜が見たかった」

は静かに瞼を閉じていて、もう二度とあの瞳が見られないのが残念に思われた。

傍らの椿が、ぽとりと落ちていった。




























































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