チロル一粒分の自由





机に突っ伏して携帯電話のディスプレイを凝視する。

たぶん、今俺の眉間には皺が寄っていると思う。

その証拠に田島達は一度声を掛けてきたきり、

触らぬ神に祟りなしってやつなのか俺をそっとしておくことにしたらしい。

賢明な判断だ。

俺は今何を言われても右から左へと垂れ流しで、まともな会話が成り立たないだろう。

しかたがない。

俺は男の決断を迫られているのだ。



バレンタインデーというやつは厄介なものだ。

気にしたくないのに、もうほとんど本能的に気になってしまう。

男の悲しい性だ。

しかも貰いたい相手がいるとなれば殊更。

にチョコを貰えるか、貰えないか。

それだけが俺の命運を左右する。

カッコ悪いけれど義理だってこの際構わない。

情けないことにに惚れてついには三年越し、もう自尊心なんてどっかに捨ててしまっている。

でも、と知り合ってもう三度のバレンタインデーを迎えているものの、

からチョコレートを貰ったことは一度もない。

だから今年のバレンタインデーこそ期待という淡く儚いものは抹殺することにした。

は女の割にイベントごとにあまり興味がないし、

チョコレート売り場の凄まじい人混みに行くくらいなら平気で女を捨てるのも厭わないような奴だ。

チョコをくれるだなんてないない、ありえない。

そう充分過ぎるくらい自分に言い聞かしたけれど、

殺し損ねた欠片が俺を蝕んで、結局俺の思惑は失敗に終わった。

せめて素直に欲しいと、いや、くださいと言えれば良いのに。

このときばかりは己の性格を恨みたくなった。

そんな俺を嘲笑うかのように田島は朝から晩までに付き纏ってチョコちょーだい攻撃を繰り広げていて、

視界の片隅にどうしても捉えてしまうその光景が煩わしくて、俺は憂鬱な一日を過ごした。

夏の大会で結果を残した影響で野球部の人気は右肩上がりで、

俺は過去最高の数のチョコレートを貰ったが、全然嬉しくなかった。

欲しいのはからのチョコレートだけなのだからしかたない。

けれどはあいかわらずで、

口にするまでの過程は涙なくしては語れない「お前、誰かにチョコやんねーの?」という俺の言葉に

「え、誰かにあげるくらいならあたしが食べるし」と

男のそれをあっさり打ち砕くような究極の一言を返し、俺を撃沈させた。

なんだよ、バレンタインデーなんてなくなっちまえ、チクショウ。

そう心の中で唱えながら虚しく下校。

隣で自転車を走らせるはそんな俺の心情なんて知るかってなもんで、

新発売されたばかりのコンビニのプリンがなかなか美味しかっただとか、

今週のジャンプはNARUTOが結構熱かっただとか、

そろそろ髪切りたいんだけどまだ寒いから迷ってるんだとか、

ほんと他愛のないことを分かれ道に差し掛かるまで暢気に喋っていた。

「じゃあ、また明日な」と絶望を隠し努めて自然にそう言うと、

「あ」と小さく声を発してが俺を引き留めた。

咄嗟の反応で何の憶測もなしに振り向くと

「ちょっと待って、これ……」とがなにやら鞄の中を探っているではないか。

俺は急激に心拍数が高くなっていくのを感じた。

ちょっと待て、マジで?、マジでくれんの?、と膨らむ期待を抑えられず、

が鞄に突っ込んだ手から眼が離せなくなった。

「渡すの遅くなっちゃった、ごめんね」

が邪気のない笑顔でそう言って差し出したものに俺は目眩を覚えた。

意識を飛ばさなかった奇跡に感謝したいくらいだ。

俺は本気で泣きそうになった。

の手に握られた袋からはマンガの単行本らしきものが……

いや、明らかにリボーンの新刊がお目見えしていた。

「カッコイイ雲雀様を堪能してたら貸すの遅れちゃったわ、悪いね」なんて、

俺が項垂れるのに充分な台詞を残しては颯爽と帰って行った。

帰宅すると俺は全てを放り投げてベッドに突っ伏した、つーか死んだ。

お前ちょっと少年マンガ好き過ぎだろ、もっと現実を見ろ、

現実の男がお前のチョコ、たかがチョコレートでこんなに悶々するくらいお前に惚れてるっつーのに

何が雲雀様だ、「僕」とか言えば良いのかコノヤロー。

に借りたマンガを取り出し、パラパラと捲って、溜息。

「俺ってマジかっこわりぃ」だなんてもごもご呟いて、身体を起こした。

飯喰って、風呂入って、さっさと寝て、

バレンタインデーなどという忌まわしい今日を一刻も早く終わらせよう。

もう二度とに期待するまい、だなんて結局は無駄に終わるであろう決意を胸にして、

袋へマンガをしまおうとしたときだった。

中に紙屑が入っていることに気付いてビニール袋を逆さまにした。

おそらく鞄の中に放り込んでいたものが偶然紛れ込んでしまったのだろうと思った。

が大嫌いな英語のノートを丸めたそれを見ていたら

英文が上手く訳せない苛立ちにページを切り取って心のままにぐちゃぐちゃ握り潰すの姿が

容易に思い浮かんで、俺はさっきまでの気分もどこへとやら、笑ってしまった。

アイツの和訳はとんでもねぇからな、どんなの書いてあるんだかって何の気もなしに開いてみたら、

何か小さくて四角いものが転がって、俺は固まった。

そして充分時間が経ってから意味不明の言葉を叫んだ。

兄貴に「孝介、うるせー」とドア越しに文句を言われても気にならなかった。

俺はそのくらい眼の前の物体に取り乱し、我を失っていた。

たった一粒のチロルチョコ。

けれど紛れもなくチョコ。

くしゃくしゃの英語のノートには『喰え』なんてあまりに色気に欠ける言葉が書き殴ってあって、

それが俺に宛てたものだと証明するには充分過ぎた。

勝った……雲雀様に勝った……バレンタインデーに勝った!

俺は底から這い上がってくるような喜びに打ち震えながら初めてから貰ったチョコレートを味わった。

チロルチョコでこんなに感動出来るだなんて安上がりな男だと思う。

けれど、からチョコレートを貰ったという奇跡的事実に俺は完全に舞い上がっていた。

だから俺は肝心なことを見失っていたのだ。



ディスプレイに映る日付を見ていても溜息が洩れるだけだけど、俺は何度となく確認してしまう。

3月13日、うん、もう一回確認するけど3月13日。

どんなに眺めようが時間の概念を捩じ曲げることは不可能だ。

初めてからチョコを貰って一ヶ月。

俺は一ヶ月もの期間あーだこーだ悩んでいて、いまだに結論が出せず考えあぐねている。

バレンタインデーの翌日、にチョコのお礼を言おうと俺は意気込んでいたのに

は朝練で顔を合わせた矢先、

母親が寝坊して弁当の代わりにバナナ一房渡されそうになっただとか、

アイツ独特の暢気なお喋りをまた始めて俺は拍子抜けしてしまった。

いつもの姿と1ミリもずれのない

俺はやっとそこで本来の自分を取り戻し、考え始めたのだ。

そのチロル一粒に込められた意味を。

普通に考えればチロルチョコなんて明らかに義理チョコだ。

本命にチロルチョコをあげる女がいるならそいつは相当な変人奇人だ。

それにあんなノートの切れ端を丸めて包むだなんてラッピングとは認められない。

しかも『喰え』のメッセージ。

はきっと特に意味もなく俺にチョコをよこしたのだろう。

バレンタインデーなんてほとんど関係なく。

けれど逆に考えれば、あんなのでもあのがわざわざ俺の為に用意したというのは意味深だ。

あの性格だから素直にチョコを渡すだなんて出来る訳がない。

チロルチョコとはいえどそこにはもっと大きな意味が込められているのでは?

いや、でもそれだったら次の日に平然としてるのは不自然だ。

まぁ三橋みたいな挙動不振にはならないとしても、俺を避けるだとか何かしらの変化が見られる筈だ。

そもそもあんな形でよこしてきたのだから、ちゃんと俺が気付いたか気に掛けるだろう。

帰ってすぐにマンガを読むとは限らないし、

もしあの紙屑に気付いたとしてもゴミだと認識して投げ捨てる可能性は大いにありうる。

じゃあやっぱ気に掛ける程度の代物ではなかったのか。

でも待てよ、田島があれだけしつこく付き纏ったのには最後まで田島にチョコをやることはなかった。

はそういう奴なのだ。

「え、誰かにあげるくらいならあたし食べるし」と本人だって宣言していた。

本来だったら俺に巡ってくる前にの胃袋に収まっているのが普通だ。

え、じゃあやっぱコレって……?

そんな問答を永延と繰り返し、一ヶ月。

一ヶ月だ、一体俺は何をやってるんだろう、少女マンガの乙女か。

けれどもそんなぐるぐるの有効期限も残り僅か。

俺は男として答えを出さねばならない。

明日はホワイトデーなのだ。

何も気付かなかったかの如く何もせずに一日をただ早く終われと願うのか、

「は? 何コレ?」と言われるのを覚悟でちゃんとお返しを用意してに渡すべきか、

はたまたと同じ類いの手段でささやかなものを当たり障りなく返すか、

俺はどうするべきなのだろう。

どの道を選ぼうとも、俺の願望とも言える想像をするチロル一粒分の自由は失われると思う。

がどういう意味で俺にチョコをくれたのか、知ることになるだろう。

告白の返事を貰う訳でもないのにそれで何もかもが終わってしまうような、

そんな恐怖が我が身可愛さを増幅させて俺の選択を鈍らせる。

「はぁ、俺ってほんとマジかっこわりぃ……」

「いや、別にそうでもないと思うけど」

俺の消え入るような嘆きに至極真面目で淡々とした返事が返ってきて、

俺は思いっきり机を揺らして身体を起こした。

だってその声は現在進行形で俺の心を占めている人物のものだったから。

「まぁ、雲雀様と比べたら残念な感じではあるけど」

「つーか、泉驚き過ぎでしょ、何そのマンガみたいなリアクション」ってが笑う。

「チクショウ……また雲雀様かよ……」

思わず出てしまった本音にがご丁寧に「は?」と返すから、

俺は「いえ、お願いですから忘れて下さい」と頭を抱え込んだ。

その態勢を良いことに煩くなった心臓をどうにか鎮め、

冷静になれ冷静になれ冷静になれと自分の脳に指令を送る。

冷静になれ、こんなところで躓いてたら明日はどうなってしまうんだ、

俺の三年越しの片想いを雲雀恭弥という二次元の男に藻屑にされて良いのか、良い訳ないだろ。

「いや、唸ってないで構ってよ」

「え? あ、あぁ」

俺がなんとか返事をするとまたはよく回る口を開いて、

今日の弁当にはクリームコロッケが入ってて嬉しかっただとか、

意外にもしのーかはタッチを持っていないらしいだとか、

実はうまい棒の甘い味のやつを食べるのが恐くてまだ食べたことがないだとか、

もうほんとどうでも良いようなことを楽しそうに喋った。

なんかこういうの幸せかもしんねー、なんて脳が腐ったようなことを考えていたら

「あ」とが小さく声を発した。

その「あ」は完全にあのバレンタインデーのときに発した「あ」だった。

「明日ミーティングだけの日だし、帰り一緒にコンビニ行ってうまい棒食べるの付き合ってよ」

「……は?」

は俺の疑問符を無視して「やっと食べられる、これでお兄ちゃんに馬鹿にされない」なんてご機嫌だ。

「いや、待て、なんで俺が付き合わなきゃなんねーんだよ」

「え、だってひとりで三本も食べられないけど

 ふたりなら半分こしてチョコレート味もキャラメル味もココア味も食べられるじゃん」

なんでホワイトデーに好きな女とコンビニで買ったうまい棒なんぞ食べなきゃならないんだ。

そりゃ誘われて嬉しくない訳ではないけれど、決してないけれども、

俺はどうせだったら普通に喫茶店でケーキ半分ことかデートみたいなことしたいぞコラ。

それでも絶対に断れない自分がいて、もう泣きたくなった、いや、心は既に泣いている。

俺がつい今しがたまで悩んでいた男の決断とやらはなんだったんだ。

こんな展開じゃもうすべてを放棄して、事の流れに身を任せるより他あるまい。

に与えられた俺のチロル一粒分の自由はによってあっけなく葬り去られた。

あぁ、もうどうにでもなってしまえ。

「あ、勿論泉の奢りでしょ?」

「なんでだよ、お前調子乗んな」

「だって世間的には三倍返しって言うじゃん」

「あ?」

「じゃあ宜しくねー」

俺の返事なんて最初から聞く耳持ちませんとばかりに一方的に切り上げて、

は颯爽と自分のクラスへと帰って行った。

あれ、この背中に見覚えが……つーか……え、三倍返しって?

脳が正常に起動してくれなくてこめかみを指で押さえる。

そうこうしているうちに昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴って、

廊下を走り回っていた田島達が生還する。

「ねぇねぇ泉、泉はもうホワイトデーのお返し用意した?」

田島が身を乗り出して尋ねてくる。

おい田島、俺は今それどころじゃねぇんだよ。

俺の頭が今必死こいて働いて理解しようとしてるんだ、無駄な情報は与えないでやってくれ。

触らぬ神には祟りなしはどこにやっちまったんだ。

「んー……してねぇ」

会話機能がシャットダウン寸前のなか、なんとかそれらしい返事を絞り出すと

田島が「あー、駄目だぞ泉ー!」だなんて騒ぎ出す。

「ホワイトデーは三倍返しなんだからな! 姉ちゃんが言ってたもん!」

あぁ、そうですね、女はみんなそういうこと言うんですよ、

男が三倍返しするのが世間の風潮みたいだけどそんなの女の言い分で俺に関係……あった!

俺はようやく点と点が繋がって、

それなのにもう頭の中がカオスで、馬鹿みたいに叫んで立ち上がった。

三倍返しってホワイトデーのお返しのことかよ。

でもそれを要求するということはちゃんとバレンタインデーとしてチョコレートをくれた訳であって。

やっぱあのチロルチョコって……期待しても良い訳なの?

「おーい、泉、席着けー」

うまい棒三本分の自由を手に入れた俺にそんな教師の言葉が届く筈もなくて。




























































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