夏に溶けた





あたしはとにかく野球部に関わる全てを避けていた。

全神経を集中して避けていた。

だから浜田先輩に「日曜、夏大の試合があるから応援に来てくれよ」と頼まれたとき、

とても困ってしまった。

正直断ろうかとも思った。

けれど中学時代あんなにマウンドの上で輝いていた浜田先輩が

野球部の応援団をやってるかと思うとなんだか胸にくるものがあって、

結局あたしは熱意に負けて頷いてしまった。

「泉も練習頑張ってるんだぜ。応援よろしくな!」

浜田先輩はそう言い残して、教室を出て行った。

そのときには既にあたしは後悔しはじめていた。

けれど、あたしは憂鬱な気持ちを抱えたまま向かった球場で、恋に落ちてしまった。



球技大会は終始和やかな雰囲気だった。

授業から解放され、夏休みがもう眼の前に迫っている。

そのことがみんなの気持ちをゆるりとさせているみたいだ。

けれどあたしは昨日から昂揚した気持ちを抱えたままで、

なんだか落ち着ずにそわそわしながら一日を過ごしていた。

バレーの試合にはさっさと負けて時間を持て余してしまったから、

とりあえずうろちょろして、最終的には体育館に足を運んだ。

浜田先輩は確かバスケだから応援でもしようかなぁと思ったのだ。

けれど体育館に足を一歩踏み入れた瞬間、アイツを見つけてその足を引っ込めた。

とにかくここから離れなければならない。

もうほとんど本能的に身体が動き始める。

体育館を出て、もっともっと遠くに。

そう思ってたのに。

あたしは立ち止まり、そこから動けなくなってしまった。

体育館の脇にある水飲み場から視線を外せない。

そこには蛇口から吹き出る水を頭から被っている彼がいた。

顔を上げ、彼が縁に置いてあったタオルを取ろうと手を伸ばす。

「あ」

手元が狂って真っ白なそれがぽとりと落ちた。

そのとき、あたしは何も考えていなかった。

けれど咄嗟に屈んでそれを拾い、彼に差し出していた。

「悪ぃ、ありがとう」

「うん……あの、花井くんだよね?」

「へ? そうだけど」

「あたし、5組の。昨日試合観に行ったんだ」

「えっ、マジで?」

「うん。最後のバックホーム、凄かったね。感動した」

彼が照れたようにはにかんだ。

「また、応援しに行くね」

「サンキューな」

その笑顔が眩しくてあたしは眼を細めずにはいられなかった。

夏の陽射しみたいにキラキラしてるんだもの。

「じゃあな、

たったそれだけの会話だった。

けれど彼が立ち去ってもあたしはその場を離れることが出来なかった。

だって、あたしにとってその感覚は初めてのものだったから。

高校生にもなって変なのかもしれないけれど、あたしはあまり異性を意識したことがない。

これがやっとの初恋だった。

深く呼吸をして、上がってしまった心拍数を鎮める。

そしてあたしは振り向いて、凍り付いた。

泉が、いた。

泉がじっとあたしを見つめていた。

心拍数が違う意味で上がってきて、頭の中に警報が鳴る。

その視線は夏の陽射しみたいだ。

彼と同じ夏の太陽。

けれどあたしに与える感情が全然違う。

泉の視線はあたしをじりじりと焦がす。

上手く視線を逸らすことが出来なくて、眩暈がした。

泉の唇が開く。

恐い。

あたしはとにかく泉から逃げたくて、そこから駆け出した。



何も特別な予定がない夏休みの筈だったのに、彼に恋をしてそれが一転。

あたしの夏休みは球場に通うこと、彼の姿を追うことで埋め尽くされた。

打って、走って、捕って、投げて。

そのひとつひとつが特別だった。

その全てを焼き付けながら、声が嗄れるまで応援した。

彼の夏が終わるまで、あたしはそうして夏を過ごした。

恋をして、過ごした。



「夏、惜しかったよな」

浜田先輩は軽い挨拶をして隣に腰掛けるとそう言った。

「そうですね」

彼の夏は終わってしまった。

けれど、もう次に向かって走り始めているようだった。

眼の前に広がるグラウンドでは野球部が練習に励んでいる。

彼が小気味良い金属音を立ててボールをセンターへと返す。

「なぁ、

カキーン。

またひとつ、ボールが弧を描いて飛んで行く。

「花井のこと、好きだと思ってる?」

「好きですけど……」

浜田先輩の言い回しには妙な違和感があって、あたしも曖昧な返事になってしまう。

小首を傾げ、浜田先輩の困って思わず笑ってしまったような表情をあたしは見つめた。

「もう、そうやって逃げるのやめろよ」

意味が分からない。

けれどあたしは無意識に視線を逸らしていた。

「逃げるって、何から……」

「泉は、お前が好きだよ」

そんなことは知ってる、と心の中で呟いた。

泉があたしを好きだということは、もう既に知っていた。

中学時代、あたしと泉はずっと一緒だった。

卒業式の後、あたしと泉は最後の思い出を作ろうと校内を散歩することにした。

静まり返った廊下を歩きながら、些細な思い出話で盛り上がった。

いつもどおりのあたしたちだった。

「せーので学校出ようよ」、「お、良いぜ」なんて笑い合って、校門の前に並んで立った。

『せーのっ』

次の瞬間にはあたしは泉に抱き締められていた。

微かな声で泉の名前を呼ぶと、「好きだ」と言われた。

あたしと泉のあいだに性別なんて介在しないと信じていたのに、

力強い腕も、広い胸も、高い温度も、低い声も、男のひとそのものであることに気付いた。

あたしは恐怖した。

泉はすべてが自分と違う生き物だと、知ってしまった。

そのことを認めたくないあたしは、泉の腕を振り払って逃げた。

それ以来、泉とは話していない。

野球部を避けていたのは泉がいるからだ。

だって、泉を見ると、胸が苦しくなる。

「でも……あたしが好きなのは泉じゃありません」

「もう、自分に嘘吐くのやめろよ」

「嘘なんかじゃ……」

も、泉が好きなんだよ」

「違っ……」

「お前、認めたくないだけだろ?」

「そんな……あたしは泉のことなんて……」

「けど、いつも眼で追ってたのは、泉だったぞ?」

頭の中が真っ白になって、視界が歪んでいく。

視線が彷徨って、泉を捉える。

あの夏、打って、走って、捕って、投げて、輝いていたのは――

泉がゆっくりとこちらを向いて、視線が絡んだ。

あたしが泉を好きだなんて。

そんなこと、どうやって認めれば良いの?

あたしはグラウンドを背にして走った。

舗装された地面を見つめながら、ひたすら足を前へ動かす。

そんな筈ない。

あたしは恋をしていた。

そしてその相手は泉ではない。

だから、そんなことある筈がない。

混乱の最中、必死で頭の中で否定を繰り返す。

けれど否定が追い付かない。

あたしは呆然として、足を止めた。

自分が踏み締めている場所を凝視する。

あぁ、あたしはいつもこうやって逃げてきたのだ、と気付いた。

泉の気持ちからも、自分の気持ちからも、

認めたくないことは逃げて、逃げて、逃げて、ここまで来てしまったのだ。

っ」

泉の声だった。

息が荒い。

あたしを追い駆けて来たのだろう。

それが分かっていても、あたしは振り向けない。

「どうした?」

泉があたしに語りかける声を聴くのは久しぶりだった。

けれどその声は、あの日あたしを「好きだ」と言った、男のひとの声だった。

「なんでもない、から……」

だから、お願い。

これが間違ってると分かっていても、あたしは逃げられるなら逃げたい。

「なんでもないって……お前、泣いてるだろ?」

泉が腕を掴んで、あたしの顔を覗き込む。

「やだっ!」

その手を思わず振り払うと、泉が傷付いた顔が眼の前にあった。

ややあってその顔が歪んだかと思うと、泉は自嘲的に笑った。

「追い駆けて来たのが花井じゃなくて俺で悪かったな」

「えっ……」

「気付かないとでも思った?」

「……」

「追い駆けられるなら好きな奴が良いに決まってるよな……」

違う。

そうじゃないの。

そう叫びそうになる自分がいた。

「泉……」

その声はもう、女のひとの声になっていた。

あたしは悲しくて堪らなくなって、眼を閉じた。

きっと、どんなに逃げても逃げられない。

「なんでだよ……俺だって最後のフライ、捕ったのに……

 なんで……なんで俺じゃなくて花井のこと好きになるんだよ!」

本当は、泉が最後の打球を捕ったとき、あたしのなかで何かが生まれるのを感じた。

それが恐くて、必死で自分をコントロールしようとした次の瞬間、

泉からボールを受け取った花井くんがバックホームの球を投げた。

あたしの恋はそんな恋だった。

あの夏、球場で恋に落ちた。

けれど、それは彼にではない。

「アイツなんてやめて、俺にしろよ」

泉の腕が伸びてきて、あたしを後ろから抱き締めた。

その腕をあたしはもう振り払えない。

もう、逃げられない。

まやかしの恋心は夏に溶けて消えた。

これからの季節、あたしは本当の気持ちを抱えてどうすれば良いのだろう?

「泉、あたし……」



























































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