誰も知らないせかいに手を伸ばして





、もう少しここにいれば?」

あくまで提案という口振りで、選択はこちらに委ねているのに有無を言わせない力が宿っている。

その真っすぐな瞳は寧ろ懇願するようで。

あたしは心臓をぎゅっと掴まれたけれど、それでもそれを振り払おうとしたのに。

そんなのずるいずるいずるいずるい。

お兄ちゃんは本当にずるい。

あたしの恋心なんて知らないくせに、手放した筈のそれをいとも簡単に連れ戻してくる。

あたしは再び誰も知らない唄を口ずさむ。



屋上で時間を潰してから教室に滑り込むと一目散に利央が駆け寄ってきた。

あたしは鞄の中の物を出しながら「おはよ」と素知らぬ顔で挨拶する。

どうしたの? 具合でも悪いの?」

「なんで」

「だって遅刻」

あたしはあまり品行方正とは言い難く、

平気で遅刻ギリギリに登校したり、気持ちが乗らなければ授業をサボったりする。

でも、とりあえず朝のSHRにはいつも揃うようにしているから、

利央が何かあったんじゃないかと心配するのも無理はない。

「寝坊しただけだよ」

「え、なぁんだ」

利央が安堵して机に大きな身体を沈めた。

利央の腕に押されて教科書の山が崩れる。

それに顔を顰め、教科書の束を机の中に突っ込んだ。

卓上に色素の薄いふわふわの髪が広がっている。

金の波を見つめながら、なんで人ってこんなにも違うのだろうとぼんやり思う。

そっと触れてみる。

あたしのよりもずっと柔らかな感触が心地良くて眼を細めた。

「っ、?」

焦った様子であたしの名を呼ぶ利央に「ん?」と小さく返す。

「な、何してんの?」

「え、利央の髪触ってる」

「いや、それは分かってるんだけど……」

「利央の髪って触り心地良いね」

「なんか、指に馴染む感じ」と続けると「そう?」と利央が気恥ずかしそうに答えるから、

なんだか申し訳ないことをしてしまった気がして手を離した。

「犬みたい」

「えぇっ?! 犬?!」

「うん、犬」

「犬かよ……」

不貞腐れて一気にトーンダウンした利央に吹き出しそうになるのを堪える。

こんなふうに素直に感情を表に出せる純粋さ、あたしはいつ失ってしまったのだろう。

やっぱり、誰にも言えない恋をしてからだろうか。

そうして世界を守ってきたのかもしれない。

「お兄ちゃんと、全然違う感触だね」

そう静かに言うと、利央がふっと表情を変えた。

不思議な色の眼が物言いたげに揺れる。

大丈夫、言わなくても分かるから。

あたしはお兄ちゃんが好きだよ、今でも。

叶わぬ想いを捨てる為に彼氏を作った。

でもそんなの意味ないって、最初から分かっていたんだ。

そうすることで自分の気持ちにけじめを付けたかっただけ。

それすら失敗してしまったあたしは、これからみっともなく生きていくしか出来ない。

スカートのポケットに収まっている携帯電話が震える。

お兄ちゃんとお揃いで買ったシンプルな二つ折りの携帯電話を開いてみれば、新着メールありの文字。

差出人の欄にはあたしの彼氏という肩書きの人の名前が並んでいた。







早めにお風呂に入って髪を乾かし、観たかった映画を観ていると部屋のドアがノックされた。

お兄ちゃんが当たり前のように入って来る。

「おかえり」

「ただいま」

ここ一ヶ月くらい、ずっと鍵を掛けてお兄ちゃんを拒んできたのに、そんな日々が幻だったみたい。

それくらい自然で、あたしは少し眉を下げた。

お兄ちゃんはお風呂から出たばかりらしく、肩に掛けたタオルで濡れた髪を無造作に拭きながら、

ベッドの上で体育座りしているあたしの隣に座った。

「何観てんの?」

「映画」

「そんなの見りゃ分かるし」

題名を告げたけれど曖昧な返事しか返ってこなかった。

「あ、知らないとみた」

からかうように言うと、「名前くらい聞いたことあるよ」とお兄ちゃんは拗ねた。

お兄ちゃんの二十四時間という限られた一日は野球を中心に埋められている。

だからあたしたちの年代なら大概は気に掛けているドラマだとか、

豪華キャストで話題になっている映画だとか、そういうものにとても疎い。

テレビは録画しておいたナイター中継とスポーツニュースを見るくらいだと思う。

「この映画、何度も放送されてるのに」

「それなのに観てんの?」

「うん、好きなの」

テレビ画面では主人公の女性が愛する男に写真を撮られている。

世界にふたりきりしかいないみたいに。

「どんな話?」

恋とは根本的に残酷なものだと思う。

「許されぬ恋のはなし」

お兄ちゃんの視線があたしに向くのを感じる。

「世界を壊せない主人公は許されぬ恋心を誰にも打ち明けずに死ぬの」

言葉に出してみると不覚にも少し涙腺が緩んだ。

あたしもこうなるのかな?

きっとこうなるんだろうな。

そう思うと多少の覚悟があっても心が音を立てる。

「なにそれ」

「誰にも言えない恋だって、あるんだよ」

あたしは今、少し責めるような眼をしているかもしれない。

そう思ったら恐くなって、ふっと無理矢理笑みを零した。

「ま、お兄ちゃんには分かんないよね。今、幸せ絶頂って感じだもん」

「は? なんだよ、それ」

「とぼけるな、タレ眼」

「お前もタレ眼だろ」ってお兄ちゃんが笑ってくれたから胸を撫で下ろした。

ほんと、お兄ちゃんには絶対に分からないと思う。

幸せの定義が存在しないとしても。



眠りから覚めてゆっくりと瞼を上げると、見慣れた天井とは少し違和感があって、

薄雲のかかった思考で必死に何かを呑み込もうとした。

けれど頭が理解するよりも先にお兄ちゃんの匂いがすることに気が付いて、

首を回すと隣でお兄ちゃんが眠っていた。

重い瞼で瞬きを数回し、もう一度思考を働かせてやっと事態が把握出来た。

あたしの無謀とも言える悪足掻きはお兄ちゃんの些細な言葉で打ち砕かれて、

張り詰めていたものがぷつりと途切れたあたしは泣き疲れてこともあって

そのままお兄ちゃんの部屋で寝てしまったのだ。

お兄ちゃんも疲れていたのか、あたしを部屋まで運ばずに寝てしまったようだ。

お兄ちゃんの腕が守るようにあたしの身体に巻き付いていて、切なくなった。

「お兄ちゃん」

呼んでみたけれどその双眸は暗闇で沈黙したままだった。

針の音が嫌いだとお兄ちゃんは部屋に時計を置いていないから何時かは分からなかった。

おそらくお兄ちゃんの背中あたりに携帯電話が転がっているだろうと思ったけれど、

お兄ちゃんに抱え込まれている所為で手は届きそうになかった。

細く開いたカーテンから差し込む陽がお兄ちゃんの頬と髪に落ちていて、

とりあえず夜が明けたのだということは分かった。

豊かな黒髪が絹糸のようにしなやかに輝いていて、綺麗だった。

触れたい、と思った。

その衝動にあっさりと負けたあたしは手を伸ばしてお兄ちゃんの髪に触れた。

さらさらと指先を滑って、どこか神聖な感じがした。

触れてはいけないような。

手からは零れ落ちていくけれど、まだ触れられる距離にいる。

そう思うと、昨日あんなに泣いたのにまた泣きたくなった。

「ん……」

身じろぐような声が洩れて、お兄ちゃんの寝ぼけた眼があたしを捉えた。

「お兄ちゃん、おはよ」

「んっ……」

意味のない声を吐き出すとお兄ちゃんは背後に腕を回して携帯電話で時間を確かめ、

再びあたしを腕のなかに閉じ込めた。

、はよ」

「うん」

「兄ちゃんもう少ししたら起きるけどお前はもうちょい寝てな?」

耳元で響く低い声にうっとりと眼を閉じると、すぐに睡魔の波が押し寄せてきて意識が遠くなった。

そういえば、こんな穏やかな眠りは久しぶりだとまどろみのなか思った。

お兄ちゃんに会えないだけであたしの心は毎日少しずつ擦り減っていって、ろくに眠れていなかったから。

このままじゃ死んじゃうんじゃないかとあたしは本気で思っていた。

「お兄ちゃん」

「ん?」

「あたし、幸せ」



お兄ちゃんに比べたらあたしの幸せなんてちっぽけだ。

でも、それで良い。

「お兄ちゃんと彼女って学校公認じゃない」

彼女に笑顔を向けるお兄ちゃんを見る度、あたしの心はきっとひび割れていくだろう。

それでも、お兄ちゃんの傍にいられる。

それがあたしの幸せなのだ。

もう、この際みっともなくても構わない。

「この恋とは正反対だね」

そう言って視線をテレビ画面に戻した。

許されぬ恋だと知りながら、ふたりは愛し合っている。

その禁忌をお兄ちゃんと目撃しているだなんて。

なんだか奇妙だな、と思って小さく笑う。

「俺」

「うん?」

「彼女とは別れた」

思わず小さく叫びそうになって、口を手で覆った。

お兄ちゃんの横顔は何も語らない。

「……なんで」

よりも大事だと思うのはやっぱ無理だったから」

あたしは言葉を失って、眼の前の許されぬ恋を見つめるお兄ちゃんから眼を背けた。







彼と付き合うことになって初めに知った情報はバスケ部のエースだということだった。

その事実はあたしを救ったと思う。

朝から晩まで彼はバスケ一色で、付き合うことになったとはいえ一緒にいられる時間はあまりない。

そういう生活をしているのはお兄ちゃん達だけだと思っていたのだけれど、

運動部の多くの人達はそういうものらしい。

唄を口ずさむのをやめて最初に受けた告白に頷いた。

だからどうなってしまうのか不安ではあったけれど、

そんな彼のおかげであたしはどうにか“彼女”で在り続けていられる。

「高瀬」

「ん、お疲れ」

ただ、限られた時間を一緒に過ごしたいという彼の要望で、

放課後は体育館でバスケ部の練習を眺めることがあたしの日課になりつつあった。

そして女生徒達の羨望の眼差しを受けながら一緒に帰る。

興味のあるスポーツといえば野球だけのあたしだったから何も知らなかったけど、

彼は女子にとても人気があるらしい。

今だって周囲から視線を集めている。

確かにバスケをしている彼は輝いていた。

けれど、お兄ちゃんの方がずっと輝いている。

彼がボールをゴールへと放つ姿を見る度に思い描くのは白球をミットへと投げ込むお兄ちゃんの姿だった。

「今日の練習はもう切り上げることになった」

「え、そうなの?」

「うん、だからこれからデートしよ」

「えっ」

「着替えて来るから校門とこで待ってて」

彼は一方的に告げると仲間達のところへと駆けて行ってしまった。

あたしは襲いかかってくる憂鬱と戦いながら校門を目指した。

今日は野球部がミーティングだけの日だからお兄ちゃんと遭遇したらどうしようと思ったけれど、

そんなのは杞憂だったみたいだ。

生徒達はさっさと帰宅したか、もしくはまだ部活中なのか、校門のあたりは人通りがほとんどなかった。

石柱に寄り掛かって、彼が来るのを待つ。

当たり前だ、と自分に言い聞かす。

あたしたちは付き合ってるのだから、こんなのはごく自然なこと。

今までそれが運良く巡ってこなかっただけ。

すべて分かっていて自分で決めたことだもの。

今更逃げようとするだなんて潔くない。

けれどあたしは知ってしまったのだ。

お兄ちゃんと彼女が別れたことを。

別れよう、と思った。

こんなのはいつまでも続かない。

そして、あたしはやっぱりまだお兄ちゃんが好きだ。

夕暮れの陽射しのなかであの唄を口ずさむ。

「それ、何の唄?」

驚いて顔を上げると制服に着替えた彼が立っていた。

「早かったね」

「だって高瀬と付き合えるようになったのにこんなふうにどっか出掛けるの初めてだろ?」

照れたように視線を外す彼に罪悪感が湧いた。

ベストの裾をぎゅっと掴んで口を開く。

「ごめん、あたし出掛けられない」

「え、なんか用事でもあるの?」

「そうじゃないけど……」

言葉を濁して俯いた。

彼は何も返してこなかった。

たぶん、あたしが何を言おうとしているのか気付いてしまったのだろう。

唇が微かに震える。

「あたし……」

「嫌だ」

「……」

「高瀬が俺に気持ちないのは気付いてた。でも、それでも良い。俺、別れたくない」

「だけど……」

「いつか好きになってくれれば良い。俺、待つから、だから……」

無理だ。

だって、そのいつかはやってこない。

「……ごめんなさい」

彼に背を向けようとした瞬間、強く腕を掴まれた。

男の人の骨張った指が柔らかい腕の肉に食い込んで痛い。

それなのに彼の眼差しは弱々しく、あたしを悲しげに見つめる。

あたしはその視線に耐えられなくて、手を振り払うことも出来ずぎゅっと眼を瞑った。

「離して……」

「高瀬……」

「お願い、離して……」



――



一瞬、何が起こったのか理解するのが遅れた。

腕に彼のものとは違う体温を感じて、

眼を開けたときには彼を引き剥がしてあたしを背中に隠すお兄ちゃんがいた。

「お兄ちゃん……」

、大丈夫か?」

慈しむようにお兄ちゃんが囁く。

「お前がの彼氏?」

「……はい」

「こいつに何した?」

お兄ちゃんの背中に見覚えがある。

あの日、利央からあたしを守ろうとしたときの背中だ。

もう良いよ、って思った。

その手は妹を守る為のものじゃない、って。

でも、それだけじゃない。

そういうふうに守られる度に、お兄ちゃんがあたしを大事にしてくれている喜びと、

それ以外のなにものにも変われない、出口のない苦しみとで、窒息しそうになった。

もう、耐えられないのだ。

「お兄ちゃん、やめて……」

「お前は黙ってろ」

「お兄ちゃんこそもうあたしのことなんてほっとけば良いんだよ」

お兄ちゃんの背中が静かに揺れる。

「なんで、そんなこと言うんだよ……」

「だって……」

お兄ちゃんこそなんでそんなこと言うの?

そんな縋るような声で。

その手はボールを投げ、誰かを愛する、大事な手だ。

それなのに。

「俺の手は、じゃあ何の為にあるんだよ」

そう言うと、お兄ちゃんはその大事な手であたしの手を取った。



昨夜観た映画を思い出す。

あたしはもう何度もあの映画を観たから知っていた。

許されぬ恋の結末。

けれど、主人公はただ世界を壊せなかっただけだ。

彼女は愛されていた。

手を伸ばせば届くことを知っていたのに、その恋心を眠らせた。

あたしにその気持ちは到底理解出来ない。

もし、手を伸ばせば届くというのならば、あたしは何もかも捨てて手を伸ばすのに。

あたしはもう子供じゃない。

自分の言葉を悔やむようなことはない。

泣いても、その歩みを止めはしない。

そして、お兄ちゃんも迎えに来てはくれないだろう。

お兄ちゃんから背を向けたあの日、そう思った。

けれどお兄ちゃんはこんなところまで来てしまったあたしを探し、見つけ、この手を掴んでくれた。

お兄ちゃんはあたしに手を伸ばしてくれた。



あの日のようだった。

夕暮れのなか、ふたり手を繋ぎながら帰る。

お兄ちゃんの手が熱い。

あたしは泣きそうになるのを堪えながら誰も知らない唄を口ずさんだ。

そうすると心が落ち着くから。

そうしたら、お兄ちゃんがその唄に声を乗せた。

嗚呼、と思う。

嗚呼、誰も知らない唄なんかじゃなかったんだ。

お兄ちゃんは、その唄を知っていてくれていた。

あたしはお兄ちゃんが馬鹿みたいに好きで好きでどうしようもなくなった。

「お兄ちゃん、好き」

あたしは初めてこの恋心を声に出した。

言葉にしてしまったら何もかも失ってしまうような、その恋。

けれど手を伸ばさずにはいられない。

お兄ちゃんがこちらを見る。



「あたし、お兄ちゃんが好きだよ」

禁忌の無垢さと甘美さに濡れた唇が降ってきて、あたしは世界が壊れる音を聴いた。



























































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